声が聞こえる
下段霞に構えた撫子は、面金(めんがね)の隙間からじっと鈴音のことを見つめる。近すぎる間合い。それをしかける彼女は、ヤケクソでも、逆にあざ笑うようでもなく、どこか放心したようにまっさらだった。
(この女、よもや勝負を捨てたわけではないでしょうね)
苛立ちかけた気持ちを理性で抑え込む。もしもこれが挑発なら、乗ってしまえば負けだ。本来、下段霞は上段の構えと戦うために習得したはずのものだった。この状況なら正眼で応えた方が立ち回りは楽そうなものだが、下段にこだわったのは彼女が清水撫子だからという以上の理由がない。こんな短絡的な策で自ら下段を解くだなんて、彼女のプライドが許さない。
挑発に挑発で返すように、撫子が一歩踏み出す。それに応じるように、鈴音が大きく踏み込んだ。近い間合いから振りかぶらずに、手首のスナップを効かせたコンパクトな打ち込み。破壊力よりも手数と速度を意識した攻めだ。
撫子は、左右に振り払うように弾いて、鈴音の攻勢を凌ぐ。受け止めた方が防御としては楽だが、振り子のように揺れる竹刀の軌跡が、次の一刀へとつながる。それが撫子の極めた、彼女自身のスタイルである。
鈴音の竹刀を弾いた勢いで助走ををつけ、大きく円を描くように撫子の竹刀がしなる。身体を半身開いた構えのためか、通常の下段以上に、彼女のあらゆる動きには「無駄」が生まれる。本来なら極力削るべき無駄。だが、撫子にとっては速度と破壊力を増すための加速時間でしかない。放たれた剣閃は、ほとんど鞭のようだった。
大振りなのは変わらないので、相変わらず防ぐこと自体は容易だ。だが、遠心力による加速を得た重い一撃に、鈴音は弾かれたようによろけてしまう。
(浅慮への後悔を抱いたまま死になさい)
撫子の追いの一刀。防がれた反動を、そのまま次の加速に載せて、再び大きな偃月がコート上に閃く。切っ先は、よろけた鈴音のがら空きの逆胴を完璧に捉えていた――ハズだった。
先走った気持ちはすっかり残心に入りかけていた撫子だったが、切っ先が空を切った感覚に、はっとして鈴音を見る。彼女は、いつの間にかはるか遠い境界線際まで下がっていた。
(いつの間に……?)
流石の撫子も状況が理解できず、狼狽えたように息を飲む。崩れた姿勢で、無理矢理あそこまで跳んだというのだろうか?
逆胴が狙われていると見越して?
構え直した鈴音は、再びステゴロの間合いでメンチを切ると、先ほど同様にコンパクトに攻めはじめる。撫子の方はうってかわって、鈴音の攻撃をしのぐことに集中した。
苦し紛れかもしれないが、渾身の一撃を外されたのは事実。それが鈴音のあてずっぽうか、それとも策によるものか理解できない以上、出方を伺おうという撫子の判断は正しいだろう。
(分からない……この子の太刀に意志を感じない)
太刀に意志を感じるという表現自体に語弊があるが――ある程度競技に慣れた人間なら、相手の太刀筋から積極性だったり、「こいつ、時間稼ぎをしてるな」とか「誘ってるな」とか、何となく感じ取れるものがある。
相手の放つ気合であったり、足捌きであったり、そういう細かい動作の積み重ねでトータルで判断しているものではあるが――総じて分かりやすく言葉にするなら「太刀の意志」と言って良いだろう。
撫子は、目の前の少女の太刀筋から、彼女の意思を感じ取れずにいた。攻めっ気はある。だが、こちらが打ち込むものなら全力で守りに転ずる。
剣道とは、いかに相手の構えを崩すかというスポーツだ。
つまり決着の時は必然的に、両者が打ち合った時――すなわち、相打ちの瞬間に集約する。棒立ちの相手から一本を取るなんて状況は、初心者VS段位取得者など、よっぽど実力に差がない限りは、ほとんど起こりえない。
だとすれば、相手ががっちり構えている時は打ち込み、相手が打ち込んできた時には全力で守りに走る鈴音の剣道は、どのタイミングで一本を狙うと言うのだろうか。守りが堅い以上、撫子も一本を取ることができないが……悪戯に時間を浪費するばかりだ。
(時間切れの引き分け狙い? 勝ってはいないが、負けてもいないと屁理屈をこねるつもりでしょうか……?)
事実を繋ぎ合わせれば、そうとしか考えられない。
(だとしたら、残念です。あなたも結局、常識の国の人間だった)
撫子の吐いた息は、己を落ち着かせるためのものではなく、一度は認めかけた相手に対する落胆のため息だった。彼女はもう、意志を感じない鈴音の太刀に、気持ちを振り回されるようなこともなければ、興味すらない。相変わらずコンパクトで軽薄な彼女の太刀をやや乱暴に跳ねのけると、その勢いで竹刀を大きく翻す。
偃月を描いて加速した刃は、ただただ実直に鈴音の頭上目掛けて振り下ろされた。真っ向からの空竹割り。これが柄の長い薙刀であったなら、文字通り竹を砕くほどの威力があっただろう。事実、守りに入った鈴音の竹刀は、無惨にも弾き返される。
(初太刀は相手を崩すため。必殺は追いの太刀――)
再び遠心力を得た撫子の竹刀が、鈴音のメンを襲う。こればかりは防げまい――そう思った撫子だった。
しかし、鈴音はその一撃を受け止めるでなく、真横から軽く払い除けた。
「きぃぃぃぃぃ!!!」
突然に鈴音の気合が炸裂する。撫子にとっても想定外の事体だった。そもそも、打突は有効部位に当たらなければ一本にならないのだから、相手の一撃を防ぐ必要はない。とにかく竹刀をぶつけて、少しでも軌道をずらしてやればいい。
竹刀がズレれば、相手の構えにも隙ができる。そこをすかさず狙い、攻める。
それが返し技。
後ろに飛びのきながら、鈴音の返しの刃が撫子の面を狙う。
「くうっ……!」
撫子は咄嗟に竹刀を手元へと引き寄せた。〝美しい剣道〟である彼女からすれば、ずいぶんと不格好な防御姿勢だ。それでも半ばうずくまるような格好で、鈴音のカウンターを防ぎきる。
撫子の額に焦りが滲む。危なかった。しかし、追い詰められた瞬間こそが好機であることも、彼女は知っている。
大きく下がった鈴音に対し、撫子はすかさず距離を詰める。竹刀が偃月を描き、唸りをあげて加速する。
方や、鈴音も決死の一撃を外したまま終わるつもりはない。自らコート端まで下がった彼女だったが、境界線の白線ギリギリで踏みとどまった。全身の体重が一気に左足の指球にかかり、足腰の間接が悲鳴をあげる。それでもびたりと止まれたのは、ほとんど根性としか言いようがない。
あえて理由を探すなら、絶対に止まれるという自信があっただけ。場外は恥だと教えられて、「絶対に出ない」と心に誓い、事実そうしてきた。酷使される足の裏は、何度となくマメができては潰れ、できては潰れを繰り返した。
竹刀を握る手のひらだって同じで、鈴音は今でも剣道と関係ない人と握手をするのが苦手である。
ガチガチでガサガサの手だって思われてしまうのが恥ずかしいから。乙女の柔肌なんて、もう一生口にできないかもしれない。
何度も何度も。
何度も何度も。
できては潰れ。
できては潰れ。
まともに歩けないほど、傷みに苛まれた時があった。
冬場なんて、凍傷寸前になるほど足先の感覚がなくなったせいで、血だらけになっているのも気づかずに道場を真っ赤に汚してしまったこともあった。
辛かった。
苦しかった。
辞めたいと思う機会は何度でもあった。
それでも、勝ちたいと思った相手がいたから。
辞めたいと思っても、辞めるという選択肢は鈴音の中になかった。
そんな手足だからこそ、ここぞと言うときのグリップ力が生まれる。
どんなに高いスニーカーにも劣らない強力なグリップ力が。
鈴音は、左足にかかった負荷を膝のバネで殺す。これまた何度となく稽古を繰り返して、身体に染み込ませた動き。
振り子と同じだ。
後ろ向きにかかった力は、踏みとどまった足の裏を軸に、前へ飛び出す力に転じる。殺した力を、次は攻めるために一気に開放する。
跳べる自信はあった。そのためには、限界まで間合いを空ける必要があった。コートの境界線のギリギリ――その際を見定めることだけは、鈴音があらゆる剣士よりも随一秀でていること。限界まで距離をあけて、ギリギリまでため込んだ力を解き放つ。
竹刀は足から背中、肩、腕、手首、そして指――全身を使って加速するんだと、教えてくれた人がいたから。
全身を弓のようにしならせて、鈴音は跳んだ。
やっぱり背中に目があるのではないかと――撫子は、目の前の少女に対して妖怪を前にしたような怖気を感じた。だが、そんなことは些細な疑問であった。彼女なら、本当に目がついていたって可笑しくはない。
そう思わされたこと自体が、すべての答えだった。
(彼女もまた、非――)
三本の審判旗が一斉に白にあがる。しんと静まり返った道場に、主審・南斎の威風堂々とした声が響く。
勝負あり。
まるで全身を刀のように研ぎ澄ました鈴音の一刀は、遠心力を頼りにした撫子の一刀よりも、僅かに勝っていた。
「鈴音ちゃん!」
コートを出た鈴音に、竜胆が勢いよく飛びついた。彼女だけでなく、他の部員たちも興奮した様子で鈴音を周りを囲む。
「なんか、最後すごかったね! どばーんって!」
「うん……そうだね」
興奮を隠せず、大げさな身振りではしゃぐ竜胆に、鈴音は上の空で返す。その表情はどこか呆けた様子で、宝珠山の陣へ帰る撫子の背中を見つめていた。
「清水さんの薙刀剣道にもバッチリ対応できてたし、どうやったの? なんか攻略法見つけた?」
「お前ら、練習とは言え試合だぞ! 最後まで礼を尽くせ!」
話の途中で鑓水の怒号が飛ぶ。南高の部員たちは、蜘蛛の子を散らすように陣に戻って整列する。
「お互いに、礼!」
「ありがとうございました!」
コート内に並ぶBチームメンバーと、コート外に並ぶAチームメンバーの全員で頭を下げる。健闘しあった相手と、コートそのものに礼を尽くすために。
「……剣の声が聞こえたんだ」
かすかに、呟くように口にした鈴音の言葉は、誰の耳にも届いていなかった。鈴音自身も、口に出そうとして出て来た言葉ではない。
しかし、先の試合で決着の間際に解を見出すとしたら、それこそが紛れもない答えだった。
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