第76話 三善結生子(大学院学生)[1]

 見つけた!

 結生子ゆきこは、風呂に入ってお湯があふれたのを見てそう叫んだ古代ギリシャの科学者のような気分だった。

 いや、あふれるぐらいまでお湯を張るなよ、だってもったいないじゃない……。

 というより。

 そんな日本のお風呂みたいなのが、古代ギリシャにあったのか?

 そんなよけいなことまで考えたくなるほど、結生子は嬉しかった。

 見つけた。

 さっきの「滑川なめかわの美人はかならず出戻る」を、気力が上がらないままに読んだのがよかった。

 千菜美ちなみ先生は、何かの仕事に本格的につかまってしまったらしく、帰って来ない。

 だからフロアの流しになんか行かなくてもいいのに……。

 それで、勢いで書いたレポートの直しをちょっとやって、また『向洋こうよう史話しわ』に戻った。

 さっき調べたところで、第九代の藩主行稚ゆきわか――あの乱心らんしん乱行らんぎょうの藩主行喬ゆきたかの息子とされる行稚の父親問題に触れそうになって、けっきょく触れていなかった。

 もちろん、「両陵りょうりょう始末しまつ」をはじめ、公式的な記録では、行稚は行喬の息子になっている。それ以外の説明は、ない。

 ところが、これは、この聞き書きの、そして「明治版のネット掲示板」みたいな性格のある『向洋こうよう史話しわ』を見るまでもなく、当時からうわさがあった。

 当時の武家や町人の日記、『向洋史話』よりもこの時代に近い時期に書かれた回想などに、その話が出てくる。

 行稚は、相良さがら讃州さんしゅう易矩やすのりの息子である。

 その証拠には、顔かたちが若いころの讃州易矩にそっくりだ。

 それをこの『向洋史話』はどう扱っているだろう。

 こんなネタを、ネット掲示板みたいなこの本が逃すわけがないのだが、

 この行稚が登場するのは、玉藻たまもひめ騒動の第三段階だから、「玉藻姫騒動 下」のところを見れば出てくるだろう。

 それも、その部分のわりと最初のほうに。

 そこで、「玉藻姫騒動 下」のページを最初から開いていると、ふと「岡下おかしたしょうぼういわく」の文字が見えた。

 ああ。あのひとだ。

 なつひめ玉藻たまもひめは親子だ、二人とも美人だ、おじいちゃんは見た、と言っていたひとだ。

 こんどはどういうだろう、と思って、ページをめくるのを中断して、読む。

 「岡下の麩商の某氏は言った。権勢を極めた相良讃州易矩の治世に悪いきざしがあらわれたのは、岡下で永遠ようおん塔頭たっちゅう浄土じょうどいん焼亡しょうぼうしたのがその最初だった」

 ……。

 見つけた。

 最初は、こんなにあっけなく見つかるものなのか、と、思っただけだった。

 でも、ここまで、この分厚い本の下巻の後ろ半分を読み、スクロール三画面分のレポートを書き、杏樹あんじゅちゃんと仁子じんこちゃんの卒論計画にも役に立つであろうコメントを入れ、そして、たどり着いたのだと思うと、ほんとにお風呂で叫んだ科学者ぐらいの叫びは上げていいと思う。

 塔頭というのは寺院の中の小寺院だ。

 永遠寺のなかにあった小寺院が焼けたという。そして、それが讃州易矩の治世のケチのつき始めだった、というわけだ。

 そうだ。先に進もう。

 気を引き締める。

 この火災の跡地が、横川よこかわ博子ひろこさんから連絡のあっただろうか。

 こういうばあい、違う、という答えになる可能性のほうが大きいと、結生子は知っていた。

 何を通じて知っていたかはよくわからないけれど、知っていた。

 もう少し読んでみる必要がある。

 「岡平おかだいら菩提ぼだいいんちょうぎょしょう某氏は言った。私の店に伝わる話によると、讃州易矩が主馬しゅめ行稚の入部にゅうぶれ回らせた日、どこの浜からも血や炎のような鮮やかな赤色の海鼠なまこが入荷した。めでたい前兆だと高い値をつけたらすぐに売れてしまったが、あれは讃州易矩が凶事きょうじう兆しだったのだと後の人びとは噂しあった」

 いきなりがっくりする。

 海鼠ぉ……?

 海産物は千菜美先生の得意分野で、結生子はあまり知らない。

 でも、そういえば、正体を見抜かれる危険をおかして何度か行ったあの甲峰こうみねの漁業博物館に、海鼠の色の写真と模型が展示してあった。

 地味な青い色、真っ黒、そして暗い赤いのもあったが、黄色に近い派手な色のもあった。つまり海鼠にはいろんな色のがいるのだ。

 たまたま、その明るい色系のがいっぱい入荷したのだろうけれど……。

 この日に高い値をつけたら不吉なことが起こったからと、次からはそういう色のが来たら安い値で買いたたいたりしたのだろうか。

 炎や血の色だから不吉と言われたら、海鼠にしても災難だろう。いや、そんな理由で安く買いたたかれたら漁民はたまったものではない。

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