第75話 天羽佳之助(元造船所社主)[6]

 「あんたの村は、まだ、そのやまがえりだ相模さがみわたりだってやってるんですかな」

 言ってから、手を膝のあいだに置いて、短くみ手のようなしぐさをする。

 たばこが吸えないので、手をどう扱っていいかわからないのかも知れない。

 「ああ、いや、あんたのところでは、還郷かんごうりゅう帰郷きごうりゅうというんでしたか」

 「あ……ああ……」

 その「あ」は、「あたりまえだ! ばかを抜かすなこの野郎!」の「あ」だったのか、どうか。

 「あれはいけません」

 黒野くろの氏は大きくため息を交えながら言った。

 「あれはいけません」

 繰り返す。

 「いまこの日進月歩の世のなかで、二百五十年前の宝暦ほうれき年間のできごとなんかに足を引っぱられるなんて、あってはならぬことです」

 「よっ……」

 ことばを出しかけて、引っ込める。

 「よそ者に何がわかる!」だったのか。

 「よけいな口出しはよしてもらおうか!」だったのか。

 それとも「よう! 江戸時代は四百年前だ。そんなことも知らないのか劣等生野郎!」だったのか。

 黒野氏は、口もとにはたしかに笑みを浮かべ、でもまゆを寄せて、言った。

 「これは、それで痛い目にった者からの、せめてもの忠告です。それでは」

 そう言って、黒野氏はいきなり立ち上がった。

 「まあね。どうしてあんたがこの岡下おかしたのれんが通り公園にこうやって座っておられるのか、よくは知りませんがね。さいわい、わたしは、えんあってこのすぐ裏のれんが通り保育園の園長って職を頂戴ちょうだいしましてね。まあ、第二の人生、というやつです。わたしに何か相談事でもあるんだったら、どうかその保育園においでください。ま、職住一致ってやつで、私の住まいもおんなじ敷地ですからな。さっき話した妻もいっしょですよ。ただし、ちゃんと事務室を通さないで子どもらのいるところに入ると、いまのご時世、ちょっと物騒なことになりますから、それはお気をつけて」

 そして、不敵に笑う。

 「じゃあ、よかったらまた会いましょう。じゃ」

 それまでと較べるとずっと明るい声だった。

 黒野倫典とものり氏は佳之助かのすけ氏の前から立ち去った。

 さっきまでの声と較べると軽やかな足取りだ。歩きながら、何かうたっている。それが、昔の軍歌か何かなのか、シャンソンなのか、それとも最近の子どもの歌なのか、佳之助氏には区別がつかない。

 佳之助氏は立ち上がろうとした。

 でも、足が震えて、力が入らない。

 「な……なんだ……この……このやっ……やっ……」

 もう悪態をついても相手には聞こえない。でも、声は出てくれなかった。

 あれが、保育園の園長?

 あれが、この岡下に?

 駅前の、保育園の園長?

 次にあいつに見つかったら、妻のためだとか言って二千万円を持って行かれる。

 いや、もっと持って行こうとするかも知れない。

 妻をけしかけて訴訟そしょうというのを始めやがるかも知れない!

 遺跡が出れば、家が建てられない。

 家が建てられたとしても、駅前には妻の手先がいて、虎視こし眈々たんたんと佳之助氏を狙っている。

 ちくしょう! だれが二千万ぽっち……。

 ちくしょう! だれがあんなやつに、びた一もん……。

 ちくしょう!

 ちくしょう!

 ラスベガスに家を、どうして買っておかなかったんだろう!

 ……破産だ……。

 何一つ手にしていないのに、破産だ。

 天羽あもう佳之助氏はふらふらと立ち上がった。

 時刻は夕方に近づいていたが、夏なので、まだしは強い。

 そのなかをふらふらと駅のほうへと去って行く佳之助氏の姿は、通り過ぎる人たちにはいったいどう見えただろう。

 悪いやつに見つかってしまった。

 せめてもう見つからなくていい場所……。

 佳之助氏はそんな場所を見つけたいと思った。

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