第55話 三善結生子(大学院学生)[6]

 結生子ゆきこは考えを続ける。

 「少なくとも、藩は相模さがみ伊豆いずや東駿河するがから渡ってきた住民たちを追い返さないと決めていた」

 「それって、藩が決めた、って言っていいの?」

 先生はそう言ってパスチャライズドミルクのミルクティーを一口飲む。

 その様子は上品だけど。

 結生子を両方の目でじっと見て言っている、というのは、本気の質問らしい。

 いまそんな話をしなくても、と思うんだけど。

 先生は続ける。

 「だって、そのころの藩を主導してた主君って、名君扱いでしょ?」

 そのとおりだ。

 騒動で混乱した藩政を建て直した大膳たいぜん従容よりかた主膳しゅぜん行熾ゆきおきの親子はともに名君だとされている。お姫様を神様扱いする村には、この従容を「だいぜん様」、行熾を「しゅぜん様」として、三柱一体でまつっているところもある。

 「その名君が、前から住んでいた住民の利益よりも、その相模とかからの移住者の利益を優先する、なんて、不自然じゃない? いや、そんなことをやった主君は、名君とは思われないんじゃないかしら?」

 「かしら?」って、ねえ……。

 先生が思わせぶりに美女っぽさをふりまいても、この問題もあまりはっきりしないのだ。

 住民をどうするかという問題について議論した記録は残っていない。税金をどうするとか、飢饉ききんのときへの備えをどうするとか、そういう話を記した「一次史料」から推定するしかないのだ。

 結生子は自分の考えを言う。

 「それでもわたしは藩の政策だったと言っていいと思います。取りつぶし、改易かいえきは避けたい、っていうのがその理由だと思いますけど」

 なにしろ、岡平おかだいら岡下おかしたに領地を得てから一度も改易されていない大名なのに、その「玉藻たまもひめ騒動」の三度のスキャンダルを連発させた。

 一度めは突然の乱心でやむなし、しかもすぐに「おしめ」の措置をとった。二度めも実行犯はすぐに処罰した。しかし、そのうえ、三度めともなると幕府の対応は厳しい。

 その対応の中心人物だった大膳従容はその厳しさを身にしみて感じていた。

 しかも、いくら藩内の事情が変わったと言っても、相模や伊豆や東駿河から呼び寄せた移住民を追い返せば、騒動にもなるかも知れないし、ほかの藩や幕府との問題にも発展しかねない。幕府の心証を悪くすると改易とかの可能性が出てくる。

 その危険は避けたい。とくに、この大膳従容という殿様は、藩が改易されることをたいへん恐れていた。それは「一次史料」に出て来る。

 だから、この移住民を住み続けさせるしかなかった。

 それが結生子の考えだ。

 先生は、パスチャライズドミルクのミルクティーも飲んでいないのに、黙っている。

 結生子が続ける。

 「そうすると、山から帰ってきた人たちにとって、ですよ。自分たちは許しを得ていない、相模や伊豆や東駿河出身の住民は、藩から住み続けていいと言われている、となると、藩は自分たちでない側の味方をしている、ということになります」

 「でも」

と先生がおもむろに言う。

 「その山から帰ってきた人たちだって、べつに迫害されたわけじゃないでしょ?」

 ふと「はめられた」と思った。

 いまになって思っても、もう遅いけど。

 いつの間にか、騒動の話よりも、そのあとの時代、大膳従容の時代の話になっている。

 結生子は卒業論文書きでこの大膳従容に関する「一次史料」を読んだ。

 どこまでわかっているか、千菜美先生は試したいのだろう。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る