第54話 三善結生子(大学院学生)[5]

 「だとしても」

 そんなことを考えてもしかたないので、話をもとに戻す。

 ミルクティーを一口飲む。

 「岡平おかだいらの限られた漁村だけで、海の女神さまがその姫様っていうのに置き換わるっていうのは、やっぱり、漁村の人たちがその姫様の実在を信じていたからで……」

 「実在を信じていた、っていうのは、そうなんでしょうね」

 先生は思わせぶりを続ける。

 「実在を信じていた」と「実在した」は違う。そこを指摘したいのだろう。

 結生子ゆきこは、左手で口を隠して上品なふりをして、満梨まりさんの店のクッキーをかじる。

 これもあれだよね。バターを惜しげもなく使っているから出せる味で、おいしいのは乳脂肪分だよね。

 「でも、つまりね。その騒動のときから実在を信じていたのか、それとも、騒動のあとになって信じられるようになったかよねぇ……」

 なよっとして「よねぇ……てんてんてんてん」とか言われても……。

 そう。

 そこに話は戻って来て、そこから先に進まなくなってしまう。

 騒動のときから実在したと信じられていれば実在した可能性が高い。あとになって信じられるようになったとすると、その可能性が低くなる。

 でも、それは可能性であって、騒動のときから実在したと信じられていても、騒動のときに実在したかどうかはわからない。江戸時代のお姫様のことだから、庶民には会う機会もほとんどないだろう。庶民が「お城にはこういうお姫様がいるはずだ」と信じていただけかも知れない。

 実際にいた人物が信仰に取り込まれたのか。

 それとも信仰のなかで生まれた架空の人物の人物像が広がり、その信仰の外側にいた人たちにまで実在の人物だと思われるようになったのか。

 それを証拠立てる何かがないかぎり、ここから先に進めないのだ。

 お姫様を神様扱いする信仰を始めたのは、相良さがら讃州さんしゅう易矩やすのりが山へ強制移住させていて、そのあと出身地の漁村に帰ってきた人たちの集団だろう。

 玉藻たまもひめというお姫様をまつるお社やほこらはそういう漁村に限らずあちこちにあるし、お姫様を神様として扱う人も漁村に限らない。その三年生のときの調査の成果も入れると、そのお姫様が潜んでいたという伝承が残っている場所は十一か所だ。たぶん、先生や結生子やこれまで調べた人たちが知らないだけで、もっとあるだろう。伝承があったのにそれが絶えてしまった場所があるとすると、伝承があった場所はもっと多いことになる。

 しかし、そのなかで、お姫様をお祭りするための組織まで持っているのは山から海辺に帰った人たちの子孫の集団だけだ。本村ほんそんりゅうとかやまがえりとか、普通に「姫がた」と呼ばれるグループだ。

 甲峰こうみね還郷かんごうりゅうも「姫祭り」の伝統を守り続けているという。結生子はそれと対立する帰郷きごうりゅうなので、参加させてもらえないだけでなく、見学もさせてもらえない。いつ、どんな祭りをやっているのかも教えてもらえない。十年以上、あの村に住んでいたのに、いつそんな祭りが行われているか、けっきょく結生子には知る機会がなかった。

 この「姫方」グループの人たちがその信仰を始めたと考えるのがいちばん自然だと思う。

 なぜ、そんな信仰が始まったか。

 相良讃州易矩が自害した後、騒動の収拾にあたった大膳たいぜん従容よりかたは、山地に移住させられていた海辺の村の村人をもとの村に戻さなかった。

 海辺には相模さがみ伊豆いずや東駿河するがから新しく移住してきた住民がもう定着していたからだ。

 従容は、山地に移されていた住民の税を安くして開拓地を高く買い上げたり、町で商売をやるならそれを援助するなどという支援策を打ち出して妥協策を図った。でも、効果は上がらず、けっきょく、山地に移されていた住民たちはなしくずしに出身地の村に戻ってきた。

 藩が許可したのかどうかは、はっきりしない。少なくともはっきりと帰還を許すと記した「一次史料」は発見されていない。

 「その、実在したかどうかは別として、どうして、その人たちが自分たちだけの守り神様が必要だと考えたかです。つまり、このあたりで広く信仰されている八幡はちまんさま系の海の女神さまではなくて、自分たちだけの女神さまを、という……」

 「うん」

 人にずっと考えさせておいて、反応はそれだけ?

 まあいいけど。

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