第52話 三善結生子(大学院学生)[3]

 結生子ゆきこ

「はい」

と認めて、言う。

 「それで、お姫様個人が実在したかどうかは、やっぱり、その騒動というのの性質にとって重要な要素だと思うんですよ。もし実在して、そのお姫様をめぐる争いだとしたら、藩主家の血筋について何か対立があって起こった、ほんとにお家騒動ということになりますし、そうでなければ、血筋をめぐるお家騒動の要素はなくて、よく言われる、改革派と反改革派の権力闘争ということになるんでしょうし」

 黙って、上目づかいの視線だけ結生子にまといつかせながら、先生は結生子を見ていた。

 結生子は続ける。

 「ただ、お姫様が実在したかどうかという議論をすると、どちらの説をとってもいまの時点では解決のつかない問題になります」

 ことばを切る。

 先生は何も言わない。

 問題点はわかっているはずなのに。

 「玉藻たまもひめ騒動」と言えるのかどうかは別として、騒動そのものはあった。それが宝暦ほうれき年間で、一八世紀の中ごろ。一方で、『向洋こうよう史話しわ』ができたのが一九〇〇年ごろで、玉藻姫の名まえはその『向洋史話』に初めて登場する。

 どちらの説にとっても、その百五十年のへだたりの説明がつかない。それが大きな問題なのだが。

 それを結生子に言わせる気だ。

 もう!

 「実在したことにすると、どうして同時代史料に一度も出て来ないのか。それどころか、明治三十年代の聞き書きを集めた『向洋史話』まで一度も出て来ないのかを説明しないといけませんし」

 ちょっと先生の顔を見て確かめる。

 見ると、クッキーを口にくわえたところで、唇でクッキーをはさんだままこちらを見ている。

 やっぱりかわいい!

 「実在しなかったという説を採ると、逆に、ではどうしてこの聞き書きではこのお姫様のエピソードがこんなにたくさん出てくるのかを説明しないといけなくなります。『向洋史話』の玉藻たまもひめ騒動篇だけで五百ページもあるんですよ」

 これからやらなければいけない作業のたいへんさをさりげなくアピールする。

 「それは騒動についてでしょ?」

 先生が反応する。

 「お姫様本人についてのページ数じゃないでしょう?」

 「でも、わたしが見た範囲でも、その騒動の話の半分以上の項目に、お姫様、出て来ますよ。しかも、騒動のところ以外にも出て来ます」

 結生子が卒業論文で扱ったのは、騒動が終わったあと、その収拾に当たった大膳たいぜん従容よりかた主膳しゅぜん行熾ゆきおきの時代だった。だから『向洋史話』でそれに関係のある部分はじっくり読んだ。

 そこにも、お姫様が大膳従容の夢枕に立って藩政のやり方を教えさとしたとか、讃州易矩の罪状を並べ立てたとかいうエピソードが出てくる。

 「それは」

 クッキーの片側をかじってから、先生は言う。

 「ヒロインだもの。ねえ、結生子ちゃん、人が話っていうのを伝えるときに、ヒロインがいるお話と、ヒロインがいないお話と、どっちを伝える? どっちをききたがる?」

 「それはばあいによるでしょ」

 結生子も抵抗する。

 「ヒロインがいなくてもそれだけドラマチックだったら、そっちが受けると思いますけど。怪獣映画でも、セオリー通り作るんだったらヒロインを一人置いてラブストーリー仕立てにするところを、そういう要素をぜんぶ排除して成功したっていうの、ありますからね」

 言ってミルクティーを飲む。

 たしかに、先生がこだわるだけあって、このパスチャライズドミルクというのはおいしい。

 家で買っているいちばん安い脂肪抜き牛乳の百倍を超えておいしい。

 うん?

 ということは……。

 これって乳脂肪がいっぱい入ってるからおいしいの?

 いや。いまはそんなことに頭を使っているばあいではない。

 「結生子ちゃんねえ、それは映画の脚本会議とかしてるんだったらそれでもいいと思うのよ。でも、民衆の口承こうしょう伝承よ? つまりおしゃべりよ? おしゃべりなんか、おもしろい要素があったらなんでも入れちゃうと思わない?」

 それで思いついた。

 「入れちゃう、っていうのは、最初に入れ物があるからできることですよね」

 こういうぜっ返しみたいなのは先生の得意技だ。それを結生子が仕掛ける。

 どうだ?

 「それはそうね」

 先生は認めて、また満梨まりさんの店のクッキーをかじる。

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