第51話 三善結生子(大学院学生)[2]

 「感謝してますよ」

 背を丸めて、両手でカップを包みこむように持って、横目で先生を見る。

 「学部生では扱えないテーマを選ぶのを止めてくださったんですから」

 先生は、ひと口、そのパスチャライズドミルクのミルクティーをすすって、言う。

 「それって、修士しゅうし論文では扱う自信がある、って口ぶりね」

 なぜわざわざそう絡む?

 「こころざしは高く持っておきたいですから」

 でも、こんな会話でお茶の時間が終わるなら、それもくつろげていいかな、と思う。

 杏樹あんじゅちゃんや仁子じんこちゃんやそれより下の学部生はこれではくつろげないだろうけど、結生子ゆきこにとっては楽しい時間だ。

 結生子も先生が気にするところをいくつか知っているので、先生が結生子の弱みをつついてきたら結生子もつつき返す。そんなゲームだと思えばいい。

 そう思っていたら、先生は

「それだったら、結生子ちゃんは、そのお姫様は実在した説なの? それともしなかった説なの?」

などときいてきて、ゲームではすまなくなった。

 面倒くさいなあもう!

 ちらっ、と、先生の顔に目をやり

「その前に、お姫様が実在したかどうかを議論する意味があるかどうか、って議論がありますけど?」

 そっけなく言って、瑠里るりさんが買ってきてくれたクッキーをかじる。

 大藤おおふじ千菜美ちなみ先生謹製きんせいのぜいたくなミルクティーとともに、同じく謹製のきびしい質問から間を置くためにがりっとかじられるのだから、満梨まりさんの店のクッキーもクッキー冥利みょうりに尽きてほしい。

 で。

 この騒動は、海辺の小藩で起こったありふれた騒動だから、もともと研究が多いわけではない。

 主に地元の郷土史家というような人たちが研究し、たまに地元のひとでない研究者が短いものを書いている程度だ。

 その数少ない研究をたどると、『向洋こうよう史話しわ』が出て以後、ずっと玉藻たまもひめというお姫様の実在は疑われなかった。

 一九六八年に出された旧『岡平おかだいら市史』では、玉藻姫の母の身分が低かったという『向洋史話』のエピソードを採用して、この騒動を、商業資本を代表する相良さがら易矩やすのり派と無産階級を代表する姫派の階級闘争と説明している。いま読むと「階級闘争って何それ?」と思うけれど、そういう時代だったのだろう。

 ところが、一九九一年、地元の人ではない研究者が、果敢かかんな改革者として相良易矩を再評価し、玉藻姫というお姫様の実在は同時代の史料に根拠がないことから実在しなかったという説を唱えた。

 この説に対しては、岡平市では激しい反発もあったが、ずっと悪役家老の味方の子孫とみられてきた人たちからは大歓迎を受けた。結生子の家もこのグループだ。新しい『岡平市史』もこの説に従って書かれている。

 最近では、相良易矩による改革の評価は、玉藻姫の実在の問題と切り離して考えるべきだという方向で論文やエッセイがいくつか書かれている。

 ちなみに。

 千菜美先生は、ずっと岡平市の近世史を研究対象にしながら、まだ系統的に史料を読んでいないからと自説を公表していない。したがって、お姫様実在説か虚構説かの立場もわからない。

 まあしようがないか。もともと中世荘園が専門の人だから。

 「じゃあ、それについて、結生子ちゃんの考えは?」

 だから少しは自分で考えろ!

 というか、自分で自分の考えを言ってから、「貴方の考えは?」と行くものでしょ?

 いいけど。

 相手は先生だから。

 「議論する意義はあると思います。それで、実在したって説です。以上です」

 言って、クッキーをかじる。

 「そう言ったからって、以上、にはならないわよ、結生子ちゃん」

 満梨さんのところのクッキーを食べる時間がほしいから「以上」って言ったの!

 それだけの意味なの!

 「以上」になるかどうかを議論してもあんまり意味はなさそうなので、

「だって、それでわたしの出身の村はずっとそれで二派に分かれてめてきたんですよ。それで、お姫様はじつはいなかった、いたかどうかは政治の大筋には関係ないのでどちらでもいい、なんて言われて納得できるはずがありません」

 せっかくミルクティーでのどうるおしたのに、その潤いがぜんぶ飛んでしまった。

 もう!

 でも言いたいことは言った。

 「結生子ちゃんねえ」

 今度は先生が喉をかわかす番だ。

 「研究する人個人の動機は、研究するときにはいったん脇に置きなさい、ってわたしが言うことはわかってて、いまの言ったでしょ?」

 それで、じっ、と上目うわめづかいで見る。

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