■ EX45 ■ 閑話:ジョイス Ⅱ
「リオロンゴ河付近で活動中の獣人たちが大事なら急いで撤退命令を出しな。このところの長雨で一気に流量が増えた。最悪、今夜にも決壊するぞ!」
ベイスン室長にそう告げられたジョイスは文字通りに総毛立った。
――まさか、アンティマスク伯爵令嬢のあの博打が、本当に!?
「あちらとこちら、どちらに氾濫を!?」
「恐らく向こうだ。だが飲まれたらそのまま海まで流されるか、向こう岸まで送られて帰ってこれなくなるぞ!」
ベイスン室長の物言い、表情には一寸の余裕も見受けられない。
大災害が始まるのだ、とジョイスは肌で理解した。四の五のほざいている時間はどこにも無いのだと。
「かしこまりました。我々獣人への人と変わらぬお気遣いに感謝します」
敬意も程々に、ジョイスは獣人住宅地の事務所へと駆け込んだ。
フェリトリーの文官ラリーらの執務を参考に、獣人住宅地の四方山に対して知恵を捻って額を寄せ合っていた面々が、ジョイスの形相にギョッと手を止める。
「ランガ、ロックス! 急ぎリオロンゴ河流域付近で開拓中の民を此方に避難させろ、大氾濫が起きる! フェリトリー民獣人関係なくだ、急げ!」
「はっ!」
「行ってきまさぁ!」
「ザイル、お前はフェリトリー邸のラリー代行官に報告だ。失礼無きようにな」
「かしこまりました!」
ランガ、ロックス、ザイルは一年前にダートと共にアーチェの護衛としてフェリトリー領を訪れていた、ダートの親衛隊だ。くだらない質問などせず即座に行動に移ってくれる精鋭である。
配下に指示を出して最低限やることを終えたジョイスは、しかし身体の家から熱く湧き出てくる興奮と恐怖を抑えきれない。
かつて複数投げた賽の目全てに六を期待するに等しい、と己が断じた博打が、今こうやって目の前で結実しようとしている。
アーチェ・アンティマスクは天候すらも操れるのではないかという、馬鹿げた思考に囚われてしまう。
「……アーチェの姉御の計が、本当に始まるんですね」
残ったジバンニが怯えきった様相なのは、自分もそんな顔をしているであろうから、ジョイスには気持ちが良く分かった。
アーチェは味方だ。徹底してダートやジョイスたちが安住の地を得られるように策を練ってくれている、人間の中ではもっとも信頼と畏敬に足る女性だ。
だがそれはそれとして、そう。この身体を貫く恐怖だけはどうあっても拭いがたい。
思考能力に違いがありすぎて、アーチェ・アンティマスクという人間の器をジョイスは全く測ることができない。
自分が主と認めたダートがその器に敬服したぐらいだ、ジョイス程度では測れないのは当然ではあるのだろうが……
「アーチェの姉御が実は天が使わした精霊の嬰児だと言われても私は驚きませんよ」
「俺もだよジバンニ。なにせたった三人でディアブロスに飛び込んで平然と帰ってくるような御方だ、我々とは出来が違うのだろうさ」
人間が血液袋扱いされるというような環境に三人で潜入し、国の成り立ちから運営、幹部の在り方まで確認して帰ってくるような人間が只人であるはずがあるまい。
過去に抱いていたアーチェに対する稚気を、今のジョイスはどれだけ反省してもし足りない。
あれほど優秀で底が知れない人間を、人間だからという理由だけでジョイスは雑に扱っていたのだ。過去の自分の愚かさを思い出すだけでジョイスは羞恥で憤死してしまいそうだ。
「アーチェの姉御をお頭が娶ってくれれば私たちは一生悩まずにすむんでしょうな」
「逆に一生悩ませられることになるかもしれんぞ」
軽口を叩きながらも、本当にそんな未来が訪れてくれたら、とジョイスとしては思ってしまう。
あの人間の中では誰よりも獣人の未来を真面目に考えている女傑は、いずれエミネンシア侯に嫁いで行ってしまうのだと思うと――自分がもっと早くから上手く立ち回れていれば、とジョイスは自省の念に陥ってしまうのだ。
いち早くダートがアーチェを認めていたという事実に気が付けず、囲い込みできなかった。己の不徳を嘆くこといかばかりか、だ。
それに気づけていたとして、自分如きに何ができたかと思わなくもないが、それはそれとして後悔はある。
「いずれにせよ、アーチェの姉御とお頭の期待を裏切ることだけは罷り成らん。緊急事態だ、寝ずの番の手配を。いつでも動けるようにしておけ」
「了解です」
これで終わりではない。ここから全てが始まるのだ。
体調を万全にしておくためにもジョイスはまず真っ先に仮眠を取らねばならないのだが、床に伏しても眠気など一向にやってきてはくれなかった。
そうして夜明け後、これまでの鬱憤を晴らさんばかりに晴れ晴れとしたお日様の下をジョイスらは進み、これまで河岸だった地点に到着すると、
「おおっ! これがアーチェの姉御の恵みだというのか……! なんという奇跡なんだ……」
「地面だ、新しい土地だぞ!」
「河岸がここからじゃ全く見えないじゃないか!」
その広大に広がったリオロンゴ北岸の、これまで川底だった土地の広さに狂喜し、戦慄した。
いくら流域が変わるとはいえ、広がる土地はそこまで大きくはあるまいと思っていたのだ。
だが対岸のワルトラント・レヒトハン州もまた平地だったこともあり、リオロンゴの流れは今現在、相当に南下しているようであった。
「よし、アーチェの姉御の指示通り活動するぞ。ランガとロックスは手勢を連れて船の回収だ。元がレヒトハンのでもフェリトリーのでも、いや他の南方男爵領から流れ着いたものでも一向に構わん! 使えそうなものはあるだけかき集めろ! 河の魔獣に注意しろよ!」
「押忍!」「任しとけジョイス!」
「ジバンニは」「おーいジョイス! 抜け駆けは無しだぞ、ずるいじゃないか!」
「……ジバンニはベイスン室長及び室員の護衛だ。あの御方、また騎士団も連れずに。まだ安全など確保されておらんのだぞ……」
ベイスン研の面々が測量器具を担いでえっちらおっちらやってくる様に、軽くジョイスはため息を吐く。
「ザイルは空いている人手全てを使って安全確認だ。危険な物や河の魔獣が陸揚げされてないか確認しろ。あとアーチェの姉御が……タニシは素手で触らぬよう注意して焼けと言っていたな。よく分からんが従っておけ」
「アーチェの姉御直々の指示なら問うまでもねぇよ、徹底する」
元は川底だった土地だ、どんな水棲魔獣が潜んでいるか分かったものじゃない。安全など一切保証されていないし、警戒は密にして然るべきだ。
リオロンゴは国際河川ゆえに、西のドワーフ連峰が冶金の過程で垂れ流した鉱物による鉱毒の影響も無いとは言えない。
更には自然の暴威による結果とはいえ、領土を実質的に奪われたレヒトハン州は失われた分だけの領土を欲しがるだろう。
どっちを向いても問題ばかりだ。
だがここだけが疑いなく唯一、これまで誰の領土でもなかった土地なのだ。
だから最初に入植した者にのみ、その支配権が主張できる。
アーチェ曰く、アルヴィオス側から交渉に来るのはアーチェと同じ派閥のルイセント第二王子になるだろうとは聞いている。
だがそこからの交渉にアーチェが関われる余地があるかは不明だとも。
だからその場でダートがより有利な条件で交渉できるよう、いち早くジョイスは行動を起こさねばならない。
「飛脚を出せ! 文をしたため、宿場で交代しながら全力で走ってお頭にこの事実を伝えろ。時間が全てだ。アルヴィオス王家側が実態を知る前にここを俺たちで専有する!」
「オオッ!」
フェリトリー領主ベティーズとはアーチェが話を付けているから、間接的な味方になってくれるだろう。
というよりフェリトリー領の支援がなければ、まだ農地もないこの元川底でジョイスたちが生きていく事はできない。
全てはダートとルイセントの交渉次第だ。
ここから先、ワルトラントからの侵略は水際ですべてダート率いる元難民の獣人らが防ぎ、難民を受け入れ、必要があればアルヴィオス各地に派遣する。その対価としてこの土地の自治権をアルヴィオス王家に認めさせる。
全く以て楽な話ではないが、
「アーチェの姉御なら『自治ってのはそういうものでしょ?』としか言わないのだろうな」
そう、自治権を得るとはそういうことだ。
自分の土地を自分で守り、自分たちの手で栄えさせ、周囲の土地との揉め事を解消する。それが全て自力でできて、初めて自治を謳えるのだから。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます