■ EX45 ■ 閑話:ジョイス Ⅰ






 さて、王都のスラムからフェリトリー領へ生活の場を移したダートの腹心、狼の獣人であるジョイスではあったが、


「おはようジョイス、今日もやな天気が続くなぁ」

「おはようございますザックさん。水遣りの手間が省けたと喜びましょう」

「いや、こうも雨が続くと根腐れしちまうんだ。ほどほどで止んでくれねぇと困っちまうのさ」

「ふむ、農作物を育てるのも大変なのですね」


 すっかりジョイスはフェリトリー領都レリカリーの一員として溶け込んでいた。

 なにせフェリトリーは片田舎だ。フェリトリー以南のリオロンゴの河幅は極めて広く、ワルトラントからの侵攻や難民の流入を受けたことがないからそもそも獣人に対する拒絶感が薄い。

 田舎特有の余所者お断りな空気こそ当初はあったが、フェリトリー男爵ベティーズが不当な獣人を排除せんとする態度を罰してからはそれも下火だ。


 ついでにジョイス率いる獣人たちはよく働くし、竹とかいう植物を利用した日用雑貨の作成もお手の物。

 獣人たちが来てからレリカリーの生活水準は向上しており、邪険に扱う理由がない。


 もっともこれには裏があって、実際にはフェリトリー家の汚職が一掃され税が軽くなったお陰で生活が楽になった事、それが生活水準向上の最大の理由なのだが、それをジョイスが説明してやる必要はない。

 せっかくの好意はありがたく受け取れば良いのである。


「やあジョイス! 獣人の怪我人や病人はいないかい? 今すぐ怪我してもいいんだよ!?」

「こんにちはファーマス先生、いえ、間に合ってます」


 護衛の領属騎士とココット看護官を連れたファーマス医師に出会い、ジョイスは丁寧に腰を折る。

 アーチェから貴重な医者だから丁重に扱え、と言われているが、どうにも彼は獣人たちからの評判があまり良くないのだ。


 腕はいいし怪我人病人に親切なのだが、獣人の怪我を喜んでいるとも見られる言動を繰り返すので、まぁ好きにはなってもらえない人材だろう。

 熱心かつ治療には真摯なのでジョイスは目を瞑れるが、他の子供たちまで納得するかは別の話だ。


 道行く人々に声をかけ、また声をかけられながらレリカリーを通り過ぎたジョイスは、レリカリーの南に拓かれた獣人住宅地を巡回する。


「はい、じゃあかけ算九九の復唱だ、七かける九は?」

『六十三!』


 住居部では、アーチェからの指示に従い難民たちに教育するための学校が開かれている。

 正直学校の運営など難民であるジョイスたちにはどこから手を付けていいか分からなかったが、これもそう訴えたらアーチェがすぐさま教本を用意してくれた。


 しかもアルヴィオス王国の言語のみならず、ワルトラント共用文字であるワルド語の教科書まで一緒に添えて、このどちらの言語を学んでもよいとすら言ってくる。

 この指示を出したのがアーチェでなかったら、一体なにを裏で企んでいるんだとジョイスは散々悩まねばならなかっただろう。


「まずは教師を育てること。誰が聞いてもちゃんと理解ができる理論だった説明ができる人材を育てるのよ、いい? ジョイス」


 その上で、秀才ではなくていいから「分からないということが分かる人材を育てることが何より重要だ」と助言までしてくれて、おかげで今のフェリトリー領には獣人学校が開かれている。

 読み書き計算のできない獣人は年齢如何によらず、毎日決まった時間、この学校に通うことが義務づけられているのだ。


「俺たちが難民であることを忘れそうになるな」


 教室から響く声にしばし耳を傾け、問題が無さそうであると確認したジョイスはそう畏怖すら籠もった声で呟いた。

 この地の獣人たちは今や、フェリトリー領の庶民よりよほど優れた教育を受けることができているのだ。この状況が明らかに異常であることを今のジョイスは正確に理解できている。


――まぁ、それも俺たちが最終的にアーチェ様の力になることが前提だからだろうが。


 そこはジョイスとしても納得している。だからとてアーチェがジョイスにもたらしてくれる情報は正直、やりすぎではないかと心配になるくらいだ。

 たとえば獣人住宅はやや特長的な家の作りをしており、解体と再建築が容易な、極めて簡素化された、アルヴィオスのどこを見回しても存在しない最新の設計になっている。


 何故かアーチェにそんな創意工夫を求められて、フェリトリー文官や職人まで巻き込んで知恵を捻らされたのだ。

 そのかいもあって共通規格化も進み、手軽に木造家屋を建てられるようになったが、何故そんなことを求められたのかレリカリー民にはさっぱりだ。


 その理由をジョイスは知ってはいたが、正直解体再建築より建材の傷みのほうが早く、そっちの理由での建て替えになるだろうと考えていた。

 ジョイスたちにとってフェリトリーは永住の地ではない。それにジョイスの成人ももう間近に迫っている。

 だから何れにせよジョイスがこの住宅地が解体される日を目にすることはない、と。そう思ってて覚悟もしている。


 そんなふうにジョイスが未来に思いを馳せていると、


「ジョイス! ジョイスはいるかい!」


 まだ舗装されていない街路を泥をはねさせながら、雨の簾をかき分けるように傘もささずジョイスの元へ走ってくるのは、


「ベイスン室長、これはそのようにお急ぎで、いったいどうなされました?」


 バゼット・ベイスン男爵。

 れっきとしたアルヴィオス王国の世襲貴族である女男爵が、馬も駆らずに庶民のように駆けつけてくる。

 本来なら跪いてお言葉を待たねばいけないほどにジョイスとベイスン室長には身分差があるのだが、ベイスン室長は「面倒くさいからそういうのなしで」と全く取り合わない。


 とはいえバゼットはフェリトリー男爵と同格ということもあり、またアーチェから敬するように厳命されているジョイスとしては扱いに困る女性である。

 あちらを立てればこちらが立たずとはこのことだ。


 計算ができ、測量に興味を持ったジョイスに、しかもこの人は惜しげもなく自分たちの技術と測量法を指導してくれる恩人でもあるのだ。

 成長したジョイスは人間だからという理由で無闇に人を嫌う愚を犯すことはない。

 ベイスン室長は尊敬に値する人物だから、ジョイスとしては敬意を払いたいのだが……一向に払わせてくれないのは少し残念ではある。


 そんなジョイスの葛藤を他所に、


「リオロンゴ河付近で活動中の獣人たちが大事なら急いで撤退命令を出しな。このところの長雨で一気に流量が増えた。最悪、今夜にも決壊するぞ!」






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