2 雛鳥の疑問
あの人は強いものだと思っていた。あの人はたった一人で翔ぶことのできる人だと思っていた。その背中だけを追いかけて、追いかけて、決してその背には追い付けぬものだと思っていた。女王陛下と宰相閣下を守るためにその翼を広げて翔ぶ、気高く強い
けれどぐったりと力なく抱きかかえられたその姿は、エヴェンにとっては信じられないものだった。射落とされた鴉はハイマが大きいせいかひどく小さく見えて、ただただ
「
「後で説明してやる」
どこかへと運ぼうとするハイマの腕の中を見て、はたと気付いた。常と異なる髪の色は青銀で、それが何を意味しているのか分からないオルキデの国民はいない。
ズィラジャナーフはどこへ行った。彼女の中に留まれなくなって、一度シャムスアダーラのところへと戻りでもしたのか。少なくともエヴェンのところには来ていない、その気配はどこにもない。
「俺が運びます」
ともかくハイマに手間をかけさせるわけにはいかないと思っての申し出であったが、彼は首を横に振った。
長い青銀色の髪。太陽と正義の神シャムスアダーラは自分の愛する王族に印をつける。それが王家の青銀、オルキデの人間にとっては何よりも重くて尊ぶべき色。
大鴉が何者であるかなど、誰も知らない。雛鳥や成鳥と違い、大鴉だけは顔も名前もないからだ。長い黒髪を
「いい、俺が運ぶ。お前はお前の仕事をしろ」
エヴェンが最優先でしなければならないのは、ファラーシャの護衛だ。
アヴレークからファラーシャへの手紙を鳥が運んできていた。貴方も読んでおいてくださいなと渡されたそれは、どう読んでもアヴレークの死を想起させるものであった。
そして今、大鴉が射落とされてそこにいる。
閣下はどうなりましたかなど、聞くことでもない。大鴉が生きていたことを今は喜んでおくべきなのか、そんな判断はエヴェンにはできないけれど。
※ ※ ※
バシレイア王国の王都エクスーシアにおいて
講和の失敗から、およそひと月。停戦が
「ご当主様、エヴェンです。入ってもよろしいですか」
エクスロスの屋敷の最上階。使用人の姿もほとんどないその階層に上がり、エヴェンはハイマの私室の前に立ってその扉を叩いた。けれどその部屋からは返答はなく、エヴェンは身を
ややあってから、いいぞ、と中から声がした。
「失礼します」
扉を開けば、そこは簡素な部屋だった。ベッドが一つ、テーブルと椅子が一つずつ、本棚はあるもののその中には何一つとして本が並んでいない。生活感のまるでない部屋の中、ベッドの脇に椅子を持ってきたハイマはそこに座っていた。
ベッドの上には青銀色の髪が広がっている。ひと月経つものの大鴉は未だに目を覚まさず、けれど死んでもいない。エクスロスに
この部屋の隣はハイマの私室だ。その部屋とこの部屋は、廊下へ出ずとも扉一つで繋がっている。
「どうかしたか」
「刺客を三名ほど始末しましたので、火口にて処分しました」
「またか、多いな」
ハイマの言葉も
一番最初に始末した時に遺体の処分先に困ってリノケロスに相談したところ、火口に捨てろと言われた。それに
「停戦の条項が、どこからか
「あのクソババア……」
ハイマの吐き捨てた言葉は、お行儀よく聞かなかったことにした。
再戦がしたいのならば、停戦を
特に話だけを聞くならばファラーシャは殺しやすい。ここがエクスロスであり天然の
「あの」
滑らせた視線の先、テーブルの上には書類がある。裏返されているのでエヴェンには見えないが、ハイマは執務室ではなくここに書類を持ち込んで仕事をしていたのだろう。
大鴉の顔を、エヴェンはこうなって初めて見た。リヴネリーアの顔は知っていて、どこか大鴉の顔にはどこかその名残があり、一人勝手に納得したものである。やはりそうなのか、と。
このひと月、ハイマは大鴉をどうするつもりなのだろうかと疑問だった。とはいえ人質にするような様子もなければ、何かに利用しようという気配もない。ただ
「俺が
「そうか。俺の手が回らない時は頼む」
エヴェンに
けれども、目は覚まさない。どうして目を覚まさないのかエヴェンには分からないが、ファラーシャが
「……恩を、売るつもりですか?」
「あ?」
ひゅ、と息を呑んでしまった。それくらいにはハイマの声は低く、地を
戦場で彼と
「だって、そうでしょう。
そもそも
「包帯を巻き直すのも、身を清めるのも、栄養を与えるのも、ご当主様が使用人に命じれば良いことでは」
「そうかもな」
知っている人間は極力少ない方が良いとは言え、大鴉に飲ませるスープは使用人に作らせている。
けれどもハイマは、それをしない。手ずから包帯を巻き直して、身を清めて、スープを飲ませる。しかもこの場所で仕事をしながらで、
「
「は? 見くびるなよ?」
今度こそエヴェンはびくりと身を震わせた。
明らかに怒気を
「では、何故ですか」
「ほっとけねぇだろ、この状況で」
だとしても、やはりハイマ自身が世話をする理由ではない。そもそも当主であるならば、仕事はいくらでもあるだろう。それらを放り出しているということはないが、だからこそ加えて自ら大鴉の世話までするというのは仕事を増やしているようなものだ。
別に大鴉の世話を手ずからしなくとも、自分の領地で
放っておけないというのは人として当然のことなのかもしれないが、やはりそれは理由にならない。
「ルシェが王族なのも、俺は今初めて知った」
「そうですか」
それは当然大鴉が自ら明かしたりすることはないだろう。そもそもズィラジャナーフがいる時は髪も黒く、王族であることなど誰にも分からなかった。
リヴネリーアとアヴレークは知っているのかもしれないが、それはそれというものだ。
「……その髪の色は、王族にしか出ない色です。そのままオルキデへ戻せば、権力を得たい貴族たちに食いものにされますよ。もっとも、そんな簡単に食いものにされる方ではありませんが」
「そうか」
王家の青銀は何よりも重い。
太陽と正義の神シャムスアダーラの印は、つまり女王に最も近しいというものである。けれど大鴉は鴉になっていて、その時点で玉座に
けれどもその子には、間違いなく継承権が与えられる。オルキデ女王国においてその子が継承権を得られないのは、王族を父親に持つ時だけだ。母親が王族であるのならば、母親がどのような立場であれ継承権は発生する。
青銀からは青銀が生まれるというのは、貴族たちの間ではまことしやかに流れる噂である。大鴉は継承権を持たないと言えども青銀であることが発覚すれば、権力を得たい貴族は間違いなく手を伸ばしてくるだろう。
ラベトゥルもガドールも、権力というものが
それ以上は何の会話もなくて、また何かあれば報告に来ますと、エヴェンはそれだけを告げてハイマに背を向けた。
「早く目ぇ覚ませよ、
その声の中に含まれていた響きと感情が何であるのか、エヴェンにはさっぱり分からない。
ただ一つ分かっていることは、結局ハイマは他の誰にも大鴉の世話を任せたりしないだろうということだけだ。己のところに抱え込んで、世話をして。そうして目覚めを待っている。
やはり答えは見付からず、エヴェンは失礼しますと告げて部屋を辞した。
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