2章 バシレイアの各領地にて

0 群島の黒きエルモの火

 ふわふわと黒い灯火ともしびが浮かんでは消える。数多あまたの血を吸った荒野に揺れた黒い蛍火ほたるびは、空へと昇るようにして消えていった。

 ただただ静かに、ナハトは黒曜石の瞳でそれを見送る。何度も何度も繰り返したそれに、最早何の感慨かんがいを抱くこともない。

 とにかくこれで仕事は終わった。戦争というものは多くの魂がかえるものであり、だからこそナハトは傭兵ようへいに紛れて此処ここにいたのだ。


「仕事熱心だのう、黒のエルモの火エルモス・フレイム


 笑いをふくんだ声に、ナハトはゆるりと振り返った。小さな影が荒野にたたずんでいて、ぽつりと真っ黒な色を白っぽい荒野に足している。

 蛇だ。蛇がいる。

 その暗い紫の瞳の瞳孔どうこうはどこか縦に長いようにも見えて、爬虫類はちゅうるいのようにも思えた。いつも思うのだが、その口の隙間すきまからちらりと二岐ふたまたに分かれた細い舌が見えたとしてもナハトは驚かないだろう。


「……何か、御用です?」

「いいや、少し見に来ただけでな。狐がこの戦争で死んだであろう?」


 狐、とナハトはその言葉をまま繰り返す。

 世界を引っき回す四匹の獣の内、偏執の狐リオヴァルポ。四匹の獣は人にく。あるいは本体が人に紛れる。

 今回狐はどちらだったかと言えば、憑いていたわけではなかった。あれは本体だったというのに、己が狐であることすら忘れていた。四匹の中で最も愚かなのは狐だが、まさか己のことまで忘れているとは思わなかった。


「そうですね。ですが、狐のたましい此処ここにはありませんよ。とっくにどこかへ逃げ出しました」


 人間の魂と、四匹の獣の魂は違う。

 そもそも猫であれば命は百個あるというし、ネズミはいくらでも分裂する。狐は魂の状態でも動けるということもあり、捕まる前に早々に逃げ出したようだった。魂だけになってようやく己が獣であることでも思い出したか。

 まさかこんなところで紛れているとも思わなかったが、人間に殺されてしまうとはさすがは狐と言っておこう。


「うむ、そのようだな。別にいのだ、狐は放っておけば。どうせまたサギでも現れればふらふらと釣られて出てくるくらいには阿呆あほうだろう?」


 ゆらりと尾のような髪が乾いた風に揺れていた。毛先だけが黒い濃い紫色の髪は、雪が降り積もったように銀色がかっている。

 けらけらと蛇がわらっている。そのほっそりとした白い首筋に、一瞬うろこが見えた。


「はあ、そうです……」


 言葉を切り、ナハトは弓を構えて矢をつがえる。上空に見えた真っ白な鳥に狙いを定めて矢を放てば、矢に貫かれた鳥がそのまま落ちてくる。

 ぼとりと落ちたその鳥を、ナハトは無造作に踏み付けた。その目が、潰れてしまうように。


「うっわ、容赦ようしゃなーい」


 念入りにナハトが鳥を潰していると、別の笑い声がした。だからといってそちらを見るようなこともなく、ナハトは己の気が済むまで鳥を潰していることにした。

 ぐちゃりと足元で鳴った音は不快だった。けれど虫の息でも息があれば、目が使える状態であれば、あちらからナハトのことが見えてしまう。


「エントレー」

「もー、シンちょっと速いって。俺を置いて行くなんてひどいじゃないか」


 ようやく潰し終えて、ナハトは彼らの方を見る。

 蛇はその名をシン・ズィミヤー・オフィウクス、そしてもう一人の男は名をエントレー・アルニオンという。シンはともかくエントレーはアルニオンの当主であり、こんな国境の荒野で何をしているのかという話である。

 アルニオンはオルキデと国境を接するクレプトとは反対の、西の隣国をにらむ位置にある領地だ。バシレイアとオルキデの関係よりも更に悪いと言うべきか、小競り合いをしたり停止したりを繰り返している西の隣国に対処すべき当主がふらふらと歩き回っているのはいかがなものか。

 街を歩けば十人中九人は振り返りそうな整った顔立ちの男は、シンに向かって頬を膨らませている。立派な成人男性が何をしているのかとは思うが、彼は明らかにわざとそういう顔をしているのだ。


「……おぬし、エンケパロス・クレプトのところに行くのではなかったのか?」

「行くけどシンが他の男と逢引あいびきするって聞いたから」

「我はせぬぞ、おぬしではあるまいに」


 彼らが会話をしているのを、ナハトはただ冷めた目で見ていた。彼らはいつだってこの調子であるので、別段何かを言うこともない。

 シンが溜息ためいきいたところで、エントレーがシンをがばりと抱き込んだ。やせっぽちで小柄なシンはそうされるとナハトからほとんど見えなくなる。

 ぎゅうぎゅうとエントレーが抱きしめるものだから、シンはばんばんとその腕を叩いていた。おっと、とエントレーが笑って手を離したところで、シンは再び溜息ためいきいている。


「大丈夫一番はシンだから!」

「知っておる。おぬしが楽しいのならばそれでい」


 この二人はだいたいこんな調子である。ナハトはそれなりの付き合いであるので分かっていることだが、初対面の人間を前にしたとて彼らは変わらない。

 別に友人とかそういう名前でもない、赤の他人である。一応顔見知りなだけである。エントレーの友人は一体どんな気持ちで彼を眺めているのだろうかと少し考えてしまった。

 そしてこんな風でも当主というのは務まるらしい。それとも当主然とすることもあるのだろうか。


「どうでも良いのですが、御用がないのならもう行っても?」

「相変わらずつまんないよねえ、ナハト」

「はあ、そうですか」


 エントレーがナハトに向けて大仰に肩をすくめる。つまんないと言われても、ナハトは別に他の反応をするつもりも対応をするつもりもない。


「そうだ、俺が踏ん付けてるネズミ引き取らない? 遠慮えんりょしなくていいよ、ほらほら」

「……横暴では」


 近寄ってきたエントレーにぐりぐりと頬をつつかれる。エントレーよりはナハトの方が少しばかり背が低いのだが、大差はない。それで肩を組もうとしてくるものだから、ナハトは背中を丸める形になった。

 眉間みけんしわを寄せて姿勢を正そうとしたナハトの視界に、また鳥が入って来る。エントレーの腕を振り払い、再びナハトは弓を構えて矢をつがえる。

 今度はかなり接近を赦してしまった。放たれた矢に貫かれた鳥は再び落ちてきたが、一体いつから見られていたのだろう。

 腹立たしいような気持ちになって、ナハトはまた鳥を踏み付ける。先ほどよりも念入りに踏みにじっていると、やはり耳障りな音がする。


「変態クソ野郎……何匹飛ばすのでしょうね、暇なんですかね」

「うわ、まだいたんだ? やだもー、ナハトといるの見られたじゃん。俺あの人と会議で会うんだけど?」


 目をまたたかせて、ナハトはエントレーを見た。鳥をつんつんと爪先でつつきながら、エントレーは笑みを浮かべていた。台詞せりふと顔があっていないし、そもそも本当にそう思っているのかも怪しい。

 どうせ会議になど出席していないだろうに、何を言っているのか。アルニオンの当主は優秀な弟に領地のことを任せてふらふらとあちこちを歩き回っているのは有名な話である。


「それに何か問題でもございましたか」

「ございますよ」

「はあ、然様さようで」


 エントレーはまたも「つまんない」と言っている。別段彼を面白がらせるつもりはないし構わないのだが、なぜかナハトが悪いような言い草に聞こえるのは穿うがちすぎか。

 空を見上げていたシンが、視線をナハトへと戻した。分厚い服を何枚も重ねて着たその姿は、暑くはないのかと思うこともある。けれど興味はないので詳しく聞くつもりもない。


「で、おぬしこの後はどうするのだ。群島へ帰るか?」

「はい、帰ります。ですのでこのままヒュドールへ……少し、用事もありますし」


 ヒュドールは人も多ければ鳥も多い。さすがにこの荒野でのように気付いた瞬間に鳥を射落としていては騒ぎになるのは目に見えているので、姿を隠して早々に群島へと帰ってしまいたい。

 そもそもナハトが此処ここにいたのも、手伝えと命じられたからである。群島から出たくないと渋りはしたものの、その命令に従わなければナハトの母がバシレイアに来ることになる。ナハト以上にそれはまずい事態を引き起こしかねないので、ナハトは重い腰を上げたのだ。


「ヒュドール? 知り合いなんていたっけ?」


 突っ込んで聞かなくて良いものを、とは思ったものの、問われて答えないわけにもいかない。

 エントレーはおそらく深く考えて口にしたものではないのだろう。ナハトの口からヒュドールという土地の名前が出るのが珍しかっただけだ。


「……エイデス・ヒュドールに用事が」

「エイデス? なんでまた」


 ことりと、ナハトは首を傾げる。なんでまたと言われても、答えは紡げない。

 エイデス・ヒュドールはエントレーの友人だというのは知っている。あちらがナハトのことを認識できるとも思っていないが、ナハトは彼に問うべきことがあるのだ。


「さあ」


 荒野はすっかり静かである。

 戦地になるということは、そこに何もないということだ。バシレイアとオルキデの国境であるタンフィーズ荒原は、普段はキャラバンが通る以外に人がほとんどいない。


何故なにゆえ、でしょうね」


 口には出せない。

 万が一それをあの男に聞かれるようなことがあってはならない。あの男の耳に入るようなことがあってはならない。

 一応は自分の実の父親である男のことを考えて、考えたくもなくて顔をわずかにしかめて。

 ナハトはただ、南西を見る。これから向かうべき先の方角を。

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