2章 バシレイアの各領地にて
0 群島の黒きエルモの火
ふわふわと黒い
ただただ静かに、ナハトは黒曜石の瞳でそれを見送る。何度も何度も繰り返したそれに、最早何の
とにかくこれで仕事は終わった。戦争というものは多くの魂が
「仕事熱心だのう、黒の
笑いを
蛇だ。蛇がいる。
その暗い紫の瞳の
「……何か、御用です?」
「いいや、少し見に来ただけでな。狐がこの戦争で死んだであろう?」
狐、とナハトはその言葉をまま繰り返す。
世界を引っ
今回狐はどちらだったかと言えば、憑いていたわけではなかった。あれは本体だったというのに、己が狐であることすら忘れていた。四匹の中で最も愚かなのは狐だが、まさか己のことまで忘れているとは思わなかった。
「そうですね。ですが、狐の
人間の魂と、四匹の獣の魂は違う。
そもそも猫であれば命は百個あるというし、
まさかこんなところで紛れているとも思わなかったが、人間に殺されてしまうとはさすがは狐と言っておこう。
「うむ、そのようだな。別に
ゆらりと尾のような髪が乾いた風に揺れていた。毛先だけが黒い濃い紫色の髪は、雪が降り積もったように銀色がかっている。
けらけらと蛇が
「はあ、そうです……」
言葉を切り、ナハトは弓を構えて矢を
ぼとりと落ちたその鳥を、ナハトは無造作に踏み付けた。その目が、潰れてしまうように。
「うっわ、
念入りにナハトが鳥を潰していると、別の笑い声がした。だからといってそちらを見るようなこともなく、ナハトは己の気が済むまで鳥を潰していることにした。
ぐちゃりと足元で鳴った音は不快だった。けれど虫の息でも息があれば、目が使える状態であれば、あちらからナハトのことが見えてしまう。
「エントレー」
「もー、シンちょっと速いって。俺を置いて行くなんてひどいじゃないか」
ようやく潰し終えて、ナハトは彼らの方を見る。
蛇はその名をシン・ズィミヤー・オフィウクス、そしてもう一人の男は名をエントレー・アルニオンという。シンはともかくエントレーはアルニオンの当主であり、こんな国境の荒野で何をしているのかという話である。
アルニオンはオルキデと国境を接するクレプトとは反対の、西の隣国を
街を歩けば十人中九人は振り返りそうな整った顔立ちの男は、シンに向かって頬を膨らませている。立派な成人男性が何をしているのかとは思うが、彼は明らかにわざとそういう顔をしているのだ。
「……おぬし、エンケパロス・クレプトのところに行くのではなかったのか?」
「行くけどシンが他の男と
「我はせぬぞ、おぬしではあるまいに」
彼らが会話をしているのを、ナハトはただ冷めた目で見ていた。彼らはいつだってこの調子であるので、別段何かを言うこともない。
シンが
ぎゅうぎゅうとエントレーが抱きしめるものだから、シンはばんばんとその腕を叩いていた。おっと、とエントレーが笑って手を離したところで、シンは再び
「大丈夫一番はシンだから!」
「知っておる。おぬしが楽しいのならばそれで
この二人はだいたいこんな調子である。ナハトはそれなりの付き合いであるので分かっていることだが、初対面の人間を前にしたとて彼らは変わらない。
別に友人とかそういう名前でもない、赤の他人である。一応顔見知りなだけである。エントレーの友人は一体どんな気持ちで彼を眺めているのだろうかと少し考えてしまった。
そしてこんな風でも当主というのは務まるらしい。それとも当主然とすることもあるのだろうか。
「どうでも良いのですが、御用がないのならもう行っても?」
「相変わらずつまんないよねえ、ナハト」
「はあ、そうですか」
エントレーがナハトに向けて大仰に肩を
「そうだ、俺が踏ん付けてる
「……横暴では」
近寄ってきたエントレーにぐりぐりと頬をつつかれる。エントレーよりはナハトの方が少しばかり背が低いのだが、大差はない。それで肩を組もうとしてくるものだから、ナハトは背中を丸める形になった。
今度はかなり接近を赦してしまった。放たれた矢に貫かれた鳥は再び落ちてきたが、一体いつから見られていたのだろう。
腹立たしいような気持ちになって、ナハトはまた鳥を踏み付ける。先ほどよりも念入りに踏み
「変態クソ野郎……何匹飛ばすのでしょうね、暇なんですかね」
「うわ、まだいたんだ? やだもー、ナハトといるの見られたじゃん。俺あの人と会議で会うんだけど?」
目を
どうせ会議になど出席していないだろうに、何を言っているのか。アルニオンの当主は優秀な弟に領地のことを任せてふらふらとあちこちを歩き回っているのは有名な話である。
「それに何か問題でもございましたか」
「ございますよ」
「はあ、
エントレーはまたも「つまんない」と言っている。別段彼を面白がらせるつもりはないし構わないのだが、なぜかナハトが悪いような言い草に聞こえるのは
空を見上げていたシンが、視線をナハトへと戻した。分厚い服を何枚も重ねて着たその姿は、暑くはないのかと思うこともある。けれど興味はないので詳しく聞くつもりもない。
「で、おぬしこの後はどうするのだ。群島へ帰るか?」
「はい、帰ります。ですのでこのままヒュドールへ……少し、用事もありますし」
ヒュドールは人も多ければ鳥も多い。さすがにこの荒野でのように気付いた瞬間に鳥を射落としていては騒ぎになるのは目に見えているので、姿を隠して早々に群島へと帰ってしまいたい。
そもそもナハトが
「ヒュドール? 知り合いなんていたっけ?」
突っ込んで聞かなくて良いものを、とは思ったものの、問われて答えないわけにもいかない。
エントレーはおそらく深く考えて口にしたものではないのだろう。ナハトの口からヒュドールという土地の名前が出るのが珍しかっただけだ。
「……エイデス・ヒュドールに用事が」
「エイデス? なんでまた」
ことりと、ナハトは首を傾げる。なんでまたと言われても、答えは紡げない。
エイデス・ヒュドールはエントレーの友人だというのは知っている。あちらがナハトのことを認識できるとも思っていないが、ナハトは彼に問うべきことがあるのだ。
「さあ」
荒野はすっかり静かである。
戦地になるということは、そこに何もないということだ。バシレイアとオルキデの国境であるタンフィーズ荒原は、普段はキャラバンが通る以外に人がほとんどいない。
「
口には出せない。
万が一それをあの男に聞かれるようなことがあってはならない。あの男の耳に入るようなことがあってはならない。
一応は自分の実の父親である男のことを考えて、考えたくもなくて顔を
ナハトはただ、南西を見る。これから向かうべき先の方角を。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます