25 鬼の醜草

 少し、バシレイア王国でもオルキデ女王国でもない国の話をしよう。

 その国の名は――秀真ほつま。バシレイアやオルキデよりも遥かに東、広い海洋の上に浮かぶ、小さな島国の名前である。その国は東の海洋上にある八洲葦原やそあしはら玉垣内たまかきうちに行くには海流の関係上必ず通らなければならない場所にあり、中継貿易拠点ちゅうけいぼうえききょてんとして栄えた国であった。

 けれどその国は、すでに存在しない。十年前に海中へと突如とつじょ沈んだその国は、数人の生存者だけを残して跡形もなく消えたのである。

 今あるその名残は、海中からその頭だけを突き出した時計塔だ。重苦しい弔いの鐘の音を響かせたというその時計塔は、今でも時間になると鳴るというのが船乗りたちの間に流れる噂であった。


「……ん……紫音しおん


 誰かの声がする。

 眠らせてくれ、起こさないでくれ。もう何も見たくないし何も聞きたくない。そう紫音が願ったところで、その声は容赦ようしゃなく紫音の名前を呼んだ。

 ぐるぐると獣がうなるような声がする。それが狼のものであることを、紫音はよく知っていた。

 うるさい、糞狼クソオオカミ


「お前が死ねば、世界がほろぶぞ」


 うるさい。

 人間であれと願われた。死ぬなと命じられた。生きてくださいとわれた。そうやって言うくせに、誰も紫音にとは言わなかった。

 いっそ死んで良いと許可をくれ。そうしたらすべて投げ捨てて紫音は死ぬことができるのに。


「起きろ」


 さておさかなは何々ぞ。


「起きろ」


 頃しも秋の山草桔梗ききょう刈萱かるかやわれもかうこう


「紫音」


 と、云ふいうは。

 紫音は紫苑シオン、鬼の醜草しこぐさ。鬼の醜草とは誰がけし名であるか。

 思ひ草、忘れ草。いっそ萱草かんぞうであったのならば、こうして引きずって抱えて歩き続けなくても良かったのかもしれない。

 忘れられないことは、きっと呪いだ。呪いと思わなくともそれは紫音の足を雁字搦がんじがらめに絡め取って、けれど歩き続けるしかない。背負った命が、奪った命が、紫音の足を止めることを赦さない。


「うるさい」


 ゆるりと、目を開ける。

 沈んだ国と共に眠りについたはずだった。もう二度と起きなくても良いはずだった。主が守りたいと願った国を滅ぼして、そうして化け物は眠ったはずだった。

 けれど目の前の銀毛ぎんもう巨狼きょろうが、最悪の目覚めを紫音にくれた。


「俺を起こすか、銀霜ぎんそう

「ああ起こす、起きろ」


 この世界は四頭の獣によって支えられ、四匹の獣によって引っき回される。

 世界を支える四頭の獣はすなわちち、万物の巨狼きょろう、天空の絢爛鳥けんらんちょう、流水の大蛇、大地の堅牢亀けんろうき。世界を引っ掻き回す四匹の獣は即ち、享楽の猫シュレーディンガー淫蕩の鼠ラオシュラト偏執の狐リオヴァルポ調和の鷺アルデーオ

 この世界を作ったのは四つである。そして彼らはこの世界を、何をするでもなくただ見ている。時折気まぐれのように手を差し出してくることもあるけれど。


「お前なんか大嫌いだ、糞狼クソオオカミが。管理者共々朽ち果てろ」


 銀霜はつまり、万物の巨狼。

 だからこそこの獣の言う「お前が死ねば世界が滅ぶ」は、冗談だと一蹴いっしゅうすることもできないのだ。

 一度目を覚ましてしまえば、歩き続けるしかない。目の前で銀霜が満足げに笑うのを、紫音は身を起こしてにらえた。

 ぐしゃりと、長い前髪を握り潰す。


「起きたか」

「ああ」


 最悪の目覚めだ。目の前に銀霜がいるなどと。

 こうして十年の眠りから叩き起こされて、『人間の形をした化け物昂神紫音という存在』は再び歩く。滅ぼしてしまった国への贖罪しょくざいと、己に絡みついた願いとも呪いとも分からぬものを背負いながら。


  ※  ※  ※


 風に首に巻いた薄青のマフラーはひるがえったが、すその長いコートはひるがえることがない。さてここはどこだろうかと、紫音は足を止めた。

 銀霜と一緒にいるのが嫌で離れて数日、西へ西へと流れてきたは良いが完全に道を見失った。どうせ行く先もないのだが、だからといって自分が今どの国のどこにいるのかまで見失うとは情けない。


璃空りく、どうしようか」


 肩に止まった紅色の羽をしたオナガドリに問いかけてみても、当然答えはない。ただ璃空は楽しそうに見を震わせて、ばさりと翼を広げるだけだ。

 迷い込んだその場所は、どこかの庭園と言えるだろう。木々は美しく形を整えられ、花が咲いている。近場には噴水もあって、どうにも紫音がいるにはそぐわない。


三七十みなとは?」


 璃空は分からないとでも言うように一声鳴いた。

 と、向こうから灰色の毛玉のようなものが駆けてくるのが見える。それが三七十であると判断して、紫音は一つ溜息ためいきいた。

 この庭園を探検にでも行ったのかもしれないが、不用意に誰かに出会ったらどうするつもりなのだろう。自分自身も誰かに出会ったら言い訳もできないことは分かっていて、紫音はぐしゃりと前髪を握り潰す。

 長い前髪は、双眸そうぼうを隠すためのものだ。紫音が化け物であることを如実にょじつに示すその色は、血の色が混じった黄金の色。これが純粋な黄金の色であれば、まだ良かったかもしれないのに。

 触れた髪はごわついて固く、黒い髪は痛み切っている。一応身なりを整えはしたが、十年も眠っていればこんなものだろうか。それにしては時間が停まっていたかのようではあるけれど。


「親を取られて鳴く雛鳥の、憐れ哀しき叫び声」


 ふと、そこで足を止める。

 どうにも濃い血の臭いがしていて、これは穏やかではない。何事かあったのかと、紫音はただそちらへと足を進めた。硬い爪先つまさきかかとかれた石にぶつかって足音を立て、紫音は音を立てないように歩き方を変える。

 血の臭いは、奥まったところからしているようだった。


「よみするちどり、唄う声。叫びの声は、うとふやすかた」


 陽光にきらめいたのは、青銀色の髪。小柄なその人はぐったりと力を失って、壁にもたれかかるようにして崩れ落ちていた。

 息はしている、生きてはいる。けれどそれも時間の問題か。

 どうするべきかと考えていれば、それをとがめるように三七十が一声える。


「うとふ、善知鳥うとう


 分かったよと彼にうなずいて、しゅるりと手の中で植物を芽吹かせる。種子から芽吹いたそれを地面に投げれば、途端とたんにそれは伸びあがって目の前の人を包んでいった。

 これが正しいことなのかは分からない。本当ならばここで死ぬ運命にあったのかもしれない。けれど未だ周囲に死神の気配はなく、魂がその身を離れるまでには時間もあるか。

 咲け、と小さくつぶやいた。


「これ、いかなる罪のなれる果てぞや――」


 葉柄ようへいのない細長い葉が伸びていく。対になるように二枚ずつ順についていった葉、それから茎の頭には小さなつぼみ

 そうして、黄色の花が咲いた。五枚花弁のその花には、黒い点と黒い線が入っている。花は咲いてほのかに光ったかと思うと、それらはすべてさらさらと白くなって消えていく。


「……これで文句はないか、三七十」


 三七十が満足げに尾を振っているのを見て、紫音は一つ息をらす。

 こんなことが殺した命へのつぐないになるとは思っていない。いっそ秀真ほつまの生き残りでも探して、恨みをぶつけられるべきか。

 そんなことをつらつらと考えていたところで、誰かの気配が近付いてくるのに気付いた。どうしたものかと考えたところへ赤い手毬てまりがぽんと跳ねる。


「三七十、お前これ……」


 自慢げに尾を振った三七十に、けれど考えている暇はないかと手毬を拾う。それをぽんと投げ上げて、紫音は呼吸を整えた。

 誰かの足音が聞こえてくる。


「通りゃんせ、通りゃんせ。回廊かいろう開け、おく鳥居とりい


 一度だけ、紫音は振り返った。

 遠くから誰かが何かを探すようにして近付いてくる。赤い髪のその男と一瞬目が合ったような気がして、ふいと紫音は視線をらす。


「繋げ、黒――」


 とにかく今は身を隠すことが先決だ。それからこの場所がどこなのかを確認して、この先の身の振り方を考える。銀霜と行動を共にするなど真っ平御免ごめんであるし、かといって秀真の生き残りがいるかもしれない玉垣内たまかきうちまで行くのもどれほどかかるか。

 ゆらめいた空間の向こうへと、息を詰めて跳び込んだ。けたけた笑う御狐様の声が聞こえて、けれど何にも気付かなかった振りをする。

 迷うな、惑うな、今だけは。後悔と迷いばかりの己であれど。



【参考文献】

観世左近『観世流謡曲続百番集』檜書店(1942)より『大江山』

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