25 鬼の醜草
少し、バシレイア王国でもオルキデ女王国でもない国の話をしよう。
その国の名は――
けれどその国は、
今あるその名残は、海中からその頭だけを突き出した時計塔だ。重苦しい弔いの鐘の音を響かせたというその時計塔は、今でも時間になると鳴るというのが船乗りたちの間に流れる噂であった。
「……ん……
誰かの声がする。
眠らせてくれ、起こさないでくれ。もう何も見たくないし何も聞きたくない。そう紫音が願ったところで、その声は
ぐるぐると獣が
うるさい、
「お前が死ねば、世界が
うるさい。
人間であれと願われた。死ぬなと命じられた。生きてくださいと
いっそ死んで良いと許可をくれ。そうしたらすべて投げ捨てて紫音は死ぬことができるのに。
「起きろ」
さてお
「起きろ」
頃しも秋の山草
「紫音」
しおんと、
紫音は
思ひ草、忘れ草。いっそ
忘れられないことは、きっと呪いだ。呪いと思わなくともそれは紫音の足を
「うるさい」
ゆるりと、目を開ける。
沈んだ国と共に眠りについたはずだった。もう二度と起きなくても良いはずだった。主が守りたいと願った国を滅ぼして、そうして化け物は眠ったはずだった。
けれど目の前の
「俺を起こすか、
「ああ起こす、起きろ」
この世界は四頭の獣によって支えられ、四匹の獣によって引っ
世界を支える四頭の獣は
この世界を作ったのは四つである。そして彼らはこの世界を、何をするでもなくただ見ている。時折気まぐれのように手を差し出してくることもあるけれど。
「お前なんか大嫌いだ、
銀霜はつまり、万物の巨狼。
だからこそこの獣の言う「お前が死ねば世界が滅ぶ」は、冗談だと
一度目を覚ましてしまえば、歩き続けるしかない。目の前で銀霜が満足げに笑うのを、紫音は身を起こして
ぐしゃりと、長い前髪を握り潰す。
「起きたか」
「ああ」
最悪の目覚めだ。目の前に銀霜がいるなどと。
こうして十年の眠りから叩き起こされて、『
※ ※ ※
風に首に巻いた薄青のマフラーは
銀霜と一緒にいるのが嫌で離れて数日、西へ西へと流れてきたは良いが完全に道を見失った。どうせ行く先もないのだが、だからといって自分が今どの国のどこにいるのかまで見失うとは情けない。
「
肩に止まった紅色の羽をしたオナガドリに問いかけてみても、当然答えはない。ただ璃空は楽しそうに見を震わせて、ばさりと翼を広げるだけだ。
迷い込んだその場所は、どこかの庭園と言えるだろう。木々は美しく形を整えられ、花が咲いている。近場には噴水もあって、どうにも紫音がいるにはそぐわない。
「
璃空は分からないとでも言うように一声鳴いた。
と、向こうから灰色の毛玉のようなものが駆けてくるのが見える。それが三七十であると判断して、紫音は一つ
この庭園を探検にでも行ったのかもしれないが、不用意に誰かに出会ったらどうするつもりなのだろう。自分自身も誰かに出会ったら言い訳もできないことは分かっていて、紫音はぐしゃりと前髪を握り潰す。
長い前髪は、
触れた髪はごわついて固く、黒い髪は痛み切っている。一応身なりを整えはしたが、十年も眠っていればこんなものだろうか。それにしては時間が停まっていたかのようではあるけれど。
「親を取られて鳴く雛鳥の、憐れ哀しき叫び声」
ふと、そこで足を止める。
どうにも濃い血の臭いがしていて、これは穏やかではない。何事かあったのかと、紫音はただそちらへと足を進めた。硬い
血の臭いは、奥まったところからしているようだった。
「よみするちどり、唄う声。叫びの声は、うとふやすかた」
陽光に
息はしている、生きてはいる。けれどそれも時間の問題か。
どうするべきかと考えていれば、それを
「うとふ、
分かったよと彼に
これが正しいことなのかは分からない。本当ならばここで死ぬ運命にあったのかもしれない。けれど未だ周囲に死神の気配はなく、魂がその身を離れるまでには時間もあるか。
咲け、と小さく
「これ、いかなる罪のなれる果てぞや――」
そうして、黄色の花が咲いた。五枚花弁のその花には、黒い点と黒い線が入っている。花は咲いて
「……これで文句はないか、三七十」
三七十が満足げに尾を振っているのを見て、紫音は一つ息を
こんなことが殺した命への
そんなことをつらつらと考えていたところで、誰かの気配が近付いてくるのに気付いた。どうしたものかと考えたところへ赤い
「三七十、お前これ……」
自慢げに尾を振った三七十に、けれど考えている暇はないかと手毬を拾う。それをぽんと投げ上げて、紫音は呼吸を整えた。
誰かの足音が聞こえてくる。
「通りゃんせ、通りゃんせ。
一度だけ、紫音は振り返った。
遠くから誰かが何かを探すようにして近付いてくる。赤い髪のその男と一瞬目が合ったような気がして、ふいと紫音は視線を
「繋げ、黒――」
とにかく今は身を隠すことが先決だ。それからこの場所がどこなのかを確認して、この先の身の振り方を考える。銀霜と行動を共にするなど真っ平
ゆらめいた空間の向こうへと、息を詰めて跳び込んだ。けたけた笑う御狐様の声が聞こえて、けれど何にも気付かなかった振りをする。
迷うな、惑うな、今だけは。後悔と迷いばかりの己であれど。
【参考文献】
観世左近『観世流謡曲続百番集』檜書店(1942)より『大江山』
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