第29話 繰り返される毎日
仕事帰りに、バイクに乗った健人に呼び止められた。健人は今日は仕事は休みだったのに、「迎えに来た」と言われた。芽依が何かを言う前に「乗って」と言われて、メットを渡されたので、受け取って、後ろに乗った。バイクに乗せてもらうのも何度目だろう。芽依は健人の背中にしがみつきながら、もう会うのはやめようと思っていた。しばらく走っていると、海沿いの道に出た。春の海は霞がかかっていて、優しい色合いを見せた。冷たい風も柔らいでいるのに、新しい季節に変わるのが少し寂しく感じる。
海沿の公園に着くと、健人はバイクを止めた。芽依も降りて、メットを外す。春の風が頰を撫でる。
「は…くしゅ」と芽依はくしゃみをしてしまう。
「花粉症?」
「少し。…小林くんは?」
「薬飲んでるから…」と健人はメットを受け取りながら言う。
「そっか」と言って、もう一度、くしゃみをした。
しばらく落ち着くまで待ってくれる。
「一緒にちょっと出かけたくて。…鉄雄さん、帰ってきたんでしょ?」
「…うん」
「鉄雄さんって、芽依ちゃんのことどう思ってるのかな?」
「分からないけど…多分、心配してくれてて。きっと捨て猫拾ったみたいな気持ちかな? 私は…そばに居るだけで幸せだから」
そう言うと、芽依は海を見た。
「結婚の夢は叶えられないけど…いいの?」
芽依は俯いて小さな声で言った。
「今はそれでもいいかな…」
「…まぁ、僕だって、今すぐには叶えてあげられないけど」
健人を見ると、優しく笑っていた。
「だって…それは…まだ学生さんだもん」
「僕が学生だから? 頼りない?」
「ううん。健人くんはしっかりしてるし、何もかも手にできる人だから」
「そんなことないよ。買い被り過ぎてる」
「でも仕事の仕方を見てても、すごくそう思う。きっともっと素敵な人が似合うと思うの」
芽依が何を言いたいのか、健人は少し考えた。
「芽依ちゃん」
「はい」
名前を呼ばれると、慣れてなくていちいち驚いてしまう。
「僕は、素敵な人ってよく分からないけど…。誰かに何かをして欲しくて、人を好きになったわけじゃないんだ。君がただひたすら気になって、気がついたら、いつも目で追ってしまって。そのひたむきさが可愛くなって…。だから…僕にも時間が欲しい」
春風が芽依の短くなった髪をふわっと撫でていく。
「…時間?」
「うん。今は鉄雄さんと一緒でもいいから…。いつか君の夢を叶えたいと思う時が来るまで」
「その時は…もう小林君はきっと誰かと付き合ってる」
芽依は目を細めて、海の輝きを見る。
「…そうかもね。でも」
また芽依はくしゃみをした。一回したら止まらなくなって、連続でしてしまう。
「風が冷たいのかも」と言って、健人が自分の上着を肩にかけてくれる。
「ごめんなさい」と芽依は涙目に少しなって、健人を見た。
「君のこと…好きなままだけど、もう会うのはやめる。ウエディングドレスの日を最後にするから。綺麗な姿も見たいし…」
「でも雑誌に載ってしまったら、困ったりしない?」
「困らないよ。記念に取っとく」
ずっと優しい笑顔に芽依は困ってしまう。
(どうしてこんなにいい人なのに、好きになれないんだろう)
「アイスでも食べて帰ろうか」と言われて、芽依は笑顔を作って頷く。
公園にアイスの自販機があって、芽依はレモンシャーベットを選んだ。健人はチョコレートアイスだった。二人で椅子に腰掛けて食べる。健人は黙って食べて、海を眺めている。シャーベットを食べていると芽依は少し体が冷えてきた。
寒そうにしているのが伝わったのか「少し、肩を抱いてもいい?」と聞かれた。
どう応えていいのか分からなくて、芽依は曖昧な笑顔のまま視線を外した。大きな手が肩を掴む。暖かくなるけれど、芽依はなぜか「ごめんなさい」と言いたくなる自分を感じていた。でも謝まるのは違うような気がして、そのままじっとしている。
海の音が穏やかに永遠に繰り返される。去りゆく時間と移ろう季節を感じながら、大事なことを伝えられずにその音に耳を傾けていた。
バイクでアパートの前まで送ってもらって、芽依は「じゃあ、また」と言った。
「二十四日…楽しみにしてる」と言って、健人は去って行った。
バイクが去って行くのを見送って、芽依はアパートの階段を上る。芽依の部屋の明かりがついていたから、鉄雄がいることが分かる。芽依が部屋に入ると、「おかえり〜。遅かったわね」と言って、鉄雄が味噌汁を作っていた。
「ただいまです」
「どうしたの?」
「え?」
「何かあったでしょ? 顔に書いてるわよ。『男を、振って、きた』って」
芽依は思わず顔を手で触る。それを見て、鉄雄は吹き出した。
「あんたも律儀ねぇ。今時の子って、うまいことやってキープしたりするんじゃないの?」
「キープ?」
「まぁ、そんなあんただから、好かれたんでしょうけど」と言って、味噌汁の味見をしていた。
「ねぇ。どうして、いい人でも好きになれないんですか?」
「それは私が可愛いプチラパンと恋愛ができないのと同じことなの」
「可愛い私と、どうやったって恋愛できないんですか?」と芽依が真面目に聞くので、鉄雄は笑いながら答える。
「そうよ。どれだけ可愛いモンプチラパンだとしても」
深い皺を寄せている芽依の眉間を鉄雄が指で撫でる。
「ところで、モンプチラパンとプチラパンて違いがあるんですか?」
「モンは私のっていう所有格で、プチは小さいで、ラパンはウサギ。だから小さいウサギか、私の小さいウサギっていう違いよ。フランスで、恋人や夫婦、子供にも使う呼び掛け。あんたの場合はとっても可愛い子供だけど」
芽依は唇を尖らせたけれど、なんとなく飛び跳ねたくなった。でも二階なので我慢した。
そんな様子を見て笑いながら、鉄雄は「白ごはんある?」と聞いた。
「あ…お米切らしてて…」
「もう、ほんとに、あんたって子は…。取ってくるから待ってて。…やっぱり、一緒だと楽しいわねぇ」
鉄雄にそう言われて、芽依はどうしても嬉しくなってしまう。恋愛はできないときっぱり言われたのに、それでも嬉しくなってしまう。
「おかず作って待ってます」
「何作れるの?」
「目玉焼き…とか?」
そう言うと、ため息をつきながら鉄雄は出ていった。芽依は冷蔵庫を除くと卵も切らしていることに気がついた。片隅に残っている賞味期限が数日切れているウインナーをフライパンで焼くことにする。別に恋愛感情を持ってもらわなくてもいい。こうして一緒の時間を過ごせるなら、と思いながら、菜箸でウィンナーを転がした。
(いつまで…かなぁ)と心の中で呟く。
いつかくる期限を芽依は考えたくなくて、目を閉じる。
「目を閉じて、何してんの?」と戻ってきた鉄雄に驚かれた。
「あ…鉄雄さん」
「目玉焼きはどうしたの?」
「…卵もなくて」
「もう、あんたは…どうやって生きていくの?」
「鉄雄さんがいないと…だめです。何もできないです」と芽依は思わず言った。
「知ってるわよ。あんたが何にもできないの。…できるまで、待つから。モンプチラパンが一人前になるまで、男は作らないから」
「え? じゃあ…できなかったら?」
「プチラパン、あなたの夢は何?」
「お嫁さんです」
「じゃあ、できるようになりなさい。そして私を結婚式に呼んで頂戴。盛大にドレスを着てお祝いしてあげるから」
「…お祝いいらないです。ずっと一緒がいいです」
「もう、ほら、焦げてるでしょ?」と鉄雄が怒って、菜箸を動かす。
「焦げてるくらいがいいんです。賞味期限切れてるから」
鉄雄が目を大きくして、大きな声でため息をついた。
「相当…時間…かかりそうね」と面倒臭そうに言ってから、笑った。
焦げたウインナーを見ながら、芽依も笑った。そして焦げたウィンナーと味噌汁という夕食にしていささか寂しい内容だったけれど、芽依も鉄雄も手を合わせて「いただきます」と言った。この時間が永遠でありますように、と二人は祈ったが、同時にいつかは終わることも知っていた。
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