第三十話『冴え昇る月に掛かれる浮雲の』

 譜代家臣 佐久間――筆頭家老にまで登り詰めた男の零落れいらくは、家臣団の心に『明日は我が身』との激しい動揺を誘った。


 彼は光秀や秀吉の献身の裏、天王寺砦の城番という立場にありながら本願寺に対しいくさも調略もせず、また信長に報告や相談すらもせず、五年もの時を怠惰に過ごした。

ところが窮地におちいるとすがり付き、信長の蓄積された怒りが爆発。

『苦しい立場になって初めて連絡を寄越し尽力の素振りを見せるのは、はなはだ言い訳がましい』と、数年前に高野山へ追放されたのだった。


 ◇


 光秀の苦しい胸の内を、伝五でんごは静かに受け止める。

「確かに家臣団はあの一件で、譜代ふだいであっても追放かと震えております。嫉妬や共謀が渦巻いておっても奇怪おかしくはないですな」


 其の向かいでは左馬助さまのすけが、折り畳んだ笹の葉を懐にしまいながら回顧。

「佐久間殿の失態続きには信長様も看過しようが無かったのでしょう。やはり発端は三方ヶ原。

佐久間殿の軍は一人の戦死者も出ぬほど早々と撤退。片や、共に援軍に出向いた汎秀ひろひで殿の軍は逃げずに戦い続け、大将首まで取られる激闘を繰り広げた。報せを受けた信長様の憤怒の形相たるや……」と、わざとらしくグッと顔を歪める。

汎秀ひろひでは信長の傅役もりやくだった平手の孫に当たり、信長が特別目を掛けていた。


 是には伝五も、悲哀の表情で頷く。

「あの日……『人を大切に想えぬのが、佐久間あやつが何の働きも出来ぬ要因じゃ――』と蒼白で嘆かれた信長様の心中、察するに余り有ります」


「ですな。やはり与えられた家臣を大切に召し抱えず勝手にいては、配された俸禄をその分溜め込むという欲深き所業が、信長様の逆鱗に触れたんでしょう。浅ましさが際立つ慳貪けんどんを、一番嫌われるはずですから」と利三としみつが推察。


 すると左馬助は、更に苦々しさを増す。

のちの集まりで皆が見ている中、信長様から叱責され立場を失われた佐久間殿は見るも無惨……。『汎秀ひろひでを見殺しにしておいて、平然と戻って来たお前の顔は死んでも忘れぬ』と――あの冷たく言い放たれた顔こそ努努ゆめゆめ忘れられぬと思いますが」などと、人払いしているのを良い事に毒突いた。

利三は呆れるが、伝五は慌てて落とし所を見出す。


「三方ヶ原の直後、朝倉戦でも佐久間殿は落ち度を認めず、席を蹴って立ち上がっては正当性ばかりを叫ばれた。信長様はそれをずっと根に持っておられましたから、最後には勝家殿ばかりか、光秀様や秀吉殿までも引き合いに出し、佐久間殿にとって大いなる屈辱の言葉を、敢えて投げられたのでしょう……」


 しかし又も左馬助は、懲りずに横槍。

「いかん! 秀吉殿という“嫉妬狂い”を忘れてはなりませぬな! 光秀様を『新参者』『両属』とかねてより邪険に――!! 恐らく此度こたびも秀吉殿がはかったのです」

彼にとって秀吉は相当不愉快な相手なのだが、さすがの伝五も虚空を見つめ黙った。


 粛として彼らの談論を見守っていた光秀は、小気味悪く口の端で笑う。

「確かに秀吉殿は野心の塊じゃが、信長様を崇拝しておる。秀吉殿が元凶ならば私をおとしめようとしておるだけで、信長様に危険が及ぶ事は無いのう」


 主君のも言えぬ表情が、左馬助の瞳に悲しく映る。

「我らは貴方様の家臣なのですぞ――。もう少し御自身を大切にして頂きたい……!」

武士としてあるまじき発言と自覚。光秀は信長に仕えているのだから。だが、彼は言わずにはいられなかった。


 静まり返った空間に、伝五が火を灯す。

気付かぬ内に、陽が落ちていたのだ。うしながら彼は、はたと思い付いた事を口にする。

「敵対勢力や家臣ではなく、臣従する北条氏や家康殿という事は考えられませぬか? 家康殿の奥方と嫡男の首が、信長様に届けられたのは数年前の事……」


 光秀は痛む額に手を当て、暫く天井に焦点の合わぬ目を向けた後、険しい顔つきで絞り出す。

「家康殿は一見穏やかに見えるが、心の内には強いこだわりや価値観のある御方。

目標を定めては一心不乱に努力を重ね、達成に導く情熱を秘めておられる。

以前は口論される姿もあったが、最近は上手く交流を重ねる為に、人と合わせる事を意識して振る舞われておるような……。

見返りを求めぬきらいがあるが、決して人に尽くしたい訳ではない。伊賀忍と太い繋がりがあるのも油断できぬ。

恐らく、怒らせると一番厄介じゃ――」


 光秀の話を聞きながらも、じっと何かを考えていた様子の利三としみつから、部屋の空気が凍てつく程の愚見が飛び出す。


女子おなごとは実に執念深い生き物だと思いませぬか? 築山つきやま殿は、御両親を死に追いやった家康殿と信長様を恨み、子や間男まおとこを使って(不倫相手)復讐を果たそうとしておった……。

帰蝶きちょう様とて、御父上を救えなかった信長様と光秀様を、お恨みになっておられぬとも限りませぬぞ――」

苛辣からつな発言に逆上した左馬助は、立ち上がって利三の胸ぐらを掴んだ。


「おのれ! 帰蝶きちょう様を愚弄する気か!! 帰蝶様は御父上が討ち死にされた悲しみの中であっても、そのいくさにより浪人となった我らの事まで考えて下さるような御方――! 越前えちぜんで安住できたのも、手筈を整えて下さった帰蝶様のお陰なのじゃ。

道三どうさん様を殺した愚かな息子 義龍よしたつに付いておったお前には分からぬであろうがのう!」


 伝五でんごは一歩も退かぬ二人を引き剥がしながら諭す。

「暴論が過ぎるぞ。女子おなごはかりごとじゃと申すなら、信玄公の娘 真理姫殿や松姫殿も父や兄弟を討たれておるし、夫 長政殿を討たれた妹君のお市様や、亡き信康の所為せいで心を病まれた姫君 徳姫様まで信長様に因縁がある事になる……」


 しかし利三としみつは、制する伝五の腕を振り払い鼻先で笑う。

「だからなんじゃ? お市様や真理姫殿を疑わぬと? 二人こそ婚家にとっては裏切り者――。無論きちんと間諜の役割を果たされただけじゃが、男にとっては恐ろしい。夫の長政や木曾が、とんだ食わせ者じゃったのも訳合い。松姫殿や徳姫様とて幼気いたいけじゃとは思わん。よもや帰蝶様が“美濃みの道三マムシ”の娘だとお忘れか? 今更ないじゃろうが、吉乃きつの様の事で執念深く恨まれてお……」

帰蝶の名に過剰に反応し、睨みつけてくる左馬助さまのすけに利三は閉口。

ところがそんな左馬助も、お市には別の感情が働く。

「利三殿に同調する気はないが、勝家殿や秀吉殿はお市様に執心しゅうしんじゃから。もしも復讐を目論めば、力を貸す者は多くおるじゃろうの――」

頑是がんぜ無い遣り取りの対角で、冷然と沈思していた光秀の重い口が開いた。


「母とは、子の為なら人をも殺すという――。

養子とはいえ可愛がっていた万福丸を、はりつけにし串刺に処した兄上信長様の事を、お市様はどう思われたか……。そう、私も考えた事が無い訳ではない。

まして御恩ある身でありながら、帰蝶様を疑いたくはないが、幼い頃からどうも危ない道をあえて歩むような危険を孕んでおられるのも事実――。危ない香りに惹かれるというのかのう……。夢中になると脇目も振らず果敢に取り組まれるゆえ、道を踏み外されると怖ろしい。

……鳳蝶あげは様の事で、信長様をお恨みになっておられぬよう願うばかりじゃ――」


 光秀の吐露に、伝五の心は痛む。彼もまた、皆に打ち明けねばならぬ事があるのだ……。





“本能寺の変”には『黒幕』がいた――。

この作品は史実を基にしたフィクションであり、作者の妄想が多分に含まれます。何卒ご容赦頂けますと幸いです。

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