第二十二話『孫子の兵法』

「クソッ――! 何故なにゆえ波多野は寝返った!」

敗走し坂本城へ入った利三としみつは、歯を軋ませ籠手こてを投げ捨てる。


「今、調べさせておるが、波多野は信長様の朱印状に偽りの返事をしたのやも知れぬ。元より直正と結託し、丹波の奥深くに敵を誘い込み一気に殲滅せんめつする――“赤鬼の策”に乗っておったとしたら……」

心の機微に聡く、観察を重ねる伝五でんごは恐ろしい推論を立て、そして後になり其れが的中していたと分かった。


 ◇


 一方、とも幕府を開いた義昭の一翼を担う事となり強気に出た本願寺 顕如けんにょは、信徒に動員令を出し挙兵した。

本願寺を見張らせていた摂津せっつの家臣 (兵庫南部・大阪北中部)荒木から報せを受けた信長は、直ちに光秀と藤孝を送り込み包囲を命じる。


 しかし、紀伊きいの惣国(和歌山)雑賀さいかの鉄砲傭兵衆が、数千丁の武器で包囲軍を銃撃。次々と大将格が討死・逃亡し、陣形は完全に崩壊した――。


 光秀らは堀の整備もされていない貧弱な天王寺砦に逃げ込み、本願寺勢の攻撃を古畳や死んだ牛馬を盾にし凌ぎながら、信長に援軍を依頼する。


 突然の援軍要請に三千の兵しか揃える事ができなかった信長だが、怯む家臣に「光秀を見殺しにする気か――!!」と檄を飛ばし出陣した。


 ◇


 指揮を取る信長自身が、先手の足軽に混じり突撃――。

鉄砲で防戦する一万五千の本願寺勢を果敢に攻める。そして何とか壊滅的な天王寺砦に入城し、光秀らと合流を果たした。


「光秀、よくぞ耐えた」

信長は鎧が硬い音を響かせる程、ガッチリと抱き寄せる。すると光秀は足がぬるりと滑る感覚に、視線を下げた。


「信長様――! 御御足おみあしが……!」

信長の赤にまみれた足が視界に飛び込んで来る。

突入の際、信長は足に被弾し傷を負っていたのだ。

「大事ない」と言う信長を光秀は制し、尚も止めどなく血が溢れ出る傷口を押さえ、直ぐに手当を始めた。


 其の後ろで、家老らが口々に弱音を漏らす。

「本願寺勢は退却せぬな……」

「この兵力差なら勝てると踏んどるのであろう」

しかし信長はそんな空気に反して強く言い放った。

「よし! 再度攻撃を仕掛けるぞ――!!」


 響動どよめく砦の中、荒木が切り出す。

「信長様、お気を確かに。多勢に無勢ですぞ」

そんな荒木の進言に信長は首を振りながら、壊れた卓の上に立った。


「奴等はわしらが籠城し、攻撃して来ぬと思おておる。今こうして敵が近くに集まるのは天の与えた好機じゃ! 勝敗はいくさの前に決するという。心してかかれ!」


 信長の宣言通り、不意の突撃により見事本願寺勢を撃破――。

負傷した足を気にも留めず追撃する信長の姿に皆奮起し、更に三万近くの敵を討ち取り完全勝利を引き寄せた。


 うして安堵した直後、光秀が砂地にくずおれる。

彼の身体は重い病に蝕まれていた――。


 ◇


 真っ直ぐにそびえる天守が、灰色に曇る空へも届く安土城――。


 紫陽花あじさいの葉の上で、雨滴うてきがぱらぱらと心地良い音を奏で始めた庭園から、帰蝶は忙しなく奥御殿へ戻った。

着物の雨粒を払いながら、ふと、霧雨きりさめ霞影かえいの向こうに何かを感じる……。


 声を上げ助けを呼ぼうと、息を吸った刹那――、蝶の形をした紙吹雪に取り囲まれ、其の羽音により智覚が狂った。

叫ぶ声が音を失ったのか、音のない世界にいざなわれたのか――。

答えに辿り着けぬまま、“寸秒夢”のように蝶は跡形もなく消え、再び音のある世界へ戻る。

手の中に残るのは一枚の蝶……。


鳳蝶あげは――!」

帰蝶は揚羽蝶紋が印された紙の蝶を握りしめ、縁側から降りしきる雨の中へ裸足のまま飛び出した……。





“本能寺の変”には『黒幕』がいた――。

この作品は史実を基にしたフィクションであり、作者の妄想が多分に含まれます。何卒ご容赦頂けますと幸いです。

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