第35話
「お父さん、お母さん、宣美さんを僕にください」
亮二は手をついて頭を下げる、隣には顔を赤くした宣美がおずおずと下を向いていた。
「亮二くん、娘をよろしくお願いします」
アボジとオンマが亮二と同じように手をついて頭を下げている、慌てて宣美も同じポーズを取ると横から「ありがとうございます」と聞こえてきた。
食卓にはすき焼きが用意されている、いつの間にか現れた麗娜が肉ばかり食べてオンマに怒られている、麗娜はなぜか小さな頃のままだったが特に気にならなかった。
「子供は何人欲しい?」
アボジがデリカシーのない質問をすると亮二は「九人いれば野球チームが作れますね」と言って笑った。
「それは良い、宣美がんばれよ」
みんな笑っていた、アボジもオンニも、麗娜も亮二も。そこには宣美が望んだ幸せで溢れていた、大好きな両親と妹に囲まれて、素敵な旦那様に愛されて結婚。
在日朝鮮人にはすぎた願い――。
気がつくと幼い麗娜が石川孝介の陰部を咥えていた、その横ではアボジが典子と濃厚なキスをしている。
パンパンパンっと、こ気味良い音がして振り返ると亮二が尻を丸出しにしてオンマをバックで突き上げていた、家族の卑猥な声が耳に触る。
いつの間にか握りしめている牛刀、そこに映るモンスター。宣美はその刃を自分の胸に突き立てた一一。
「はぁはぁ……」
真っ暗な部屋で上半身を起こす、全身は汗でびっしょりだった。テーブルには飲みかけのワイン、どうやら飲んでいる最中に眠りについてしまったようだ、酒は強い方じゃないが、今日は無償に飲みたい気分だった。
後悔なんてしていない――。
あの日、亮二を刺し殺した事も、それがきっかけでアボジとオンマが死んでしまった事も、青ヶ島を日本人から奪った事も、仲間に報復のために命をかけさせた事も。
インパクトを、強いインパクトを残さなければあの国は変わらない。在日朝鮮人を軽んじてはならない、同じ人間なのだと。時間はかかるだろう、しかし誰かが一歩踏み出さねば何も変わらない、その為にならモンスターにだってなる。
宣美は深呼吸をして呼吸を整えた、先程の悍ましい夢を思いだしても、もう大丈夫だった。夢など所詮は蓄積した情報を処理する過程が脳内で映像化されたに過ぎない。
キッチンに向かうと蛇口を捻って水をコップに注いだ、一気に飲み干して顔を洗う。
はやく次の行動に移らなければ自分の精神が先に壊れてしまう、自分がやるべき事を頭の中で確認する。まだ夜明け前の薄暗い部屋でノートパソコンを開いた。
数件のメールに目を通すと殆どが青ヶ島移住の問い合わせだったが最後の一通でマウスを動かす手が止まる。
――東京都に住む今井百合子と申します、私には二十三歳になる娘がいました、由佳は看護師をしていて大変忙しい充実した日々を送っていました、そんな彼女が婚約者を連れてきたのはほんの二ヶ月前です。患者さんだったという彼は非常に好青年で礼儀正しく、結婚相手として申し分ないように思えました、ある日プロポーズをされたと言った娘はなぜか涙を流していました、それは嬉し涙といった感じではなくこの世に絶望しているような、そんな表情でした。
私たちは在日朝鮮人です、どうやら娘はその事を婚約者に言っていなかったようです。プロポーズの後にその事実を告げると彼は娘を卑怯者と罵りました、今まで騙していたのか、と。
騙すとはなんでしょうか? 娘は日本人ですなどと一言も言っていません。もちろん騙す気などありません。私たちは誰かと出会うたびに朝鮮人ですと言わなければいけないのでしょうか? 私は日本人ですと自己紹介する人に出会った事はありません。
彼は散々、娘を罵倒したあとに朝鮮人とわかるように目印でも付けておけよと言ったそうです。私たちは、朝鮮人であることは罪なのですか? 娘にかけてあげる言葉がありませんでした。早くに夫を亡くし女で一つ、懸命に育ててきましたが、気の利いた答えを娘に与えることはできませんでした。その日のうちに娘は手首を切って死にました。
私たちは卑怯者なのでしょうか?
私たちは生きていちゃいけませんか?
このようなところに相談をして娘の復讐を促すような真似をしている私は卑怯者なのかもしれません、でも娘は、娘はなにも悪くない。
長文、駄文で申し訳ありません。私は娘と夫の元に旅立ちます。現世に生きる意味を見出すことはできません。
娘を殺した男の詳細です。
『伊東和也 東京都練馬区ーーーーーーー三〇二』
宣美はマウスをギリギリと握り潰しそうになっている事に気がついて我に返った。
何をしても変わらないのか――。
二ヶ月前と言えば在日朝鮮人の報復行為がすでにワイドショーなどで取り上げられていた時期だ、それにもかかわらずまるで抑止力になっていない。
いやまてよ、と思考を止めて別の可能性に思い至る。朝鮮人の報復行為があるからこそ余計に嫌煙されているのではないか。何をするかわからない朝鮮人、そんな女とは結婚できないと考えるほうが辻褄があう気がした。すると彼女達を殺したのは自分ではないか。
「仇はとります」
悪い考えを振り払うようにそれだけ呟くとメールを幹部たちに転送した、定例会のトップ議題になるだろう。
パソコンを閉じて朝食の準備を始める、青ヶ島に予定外の闖入者が来島するとはこの時はまったく予期していなかった。
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