第一占 虎の尻尾に気をつけて ④
どこかの村、こぢんまりとした家。その前で、彼女は竿に掛けた洗濯物を取り込んでいる。洗濯物も彼女が着ている服も庶民のもので、しかも随分とくたびれている。
彼女の顔に化粧っ気はなく、髪も質素な髪留めを一つ付けているだけだ。今の姿とは、その華やかさにおいて天と地ほどの差がある。
しかし、彼女の顔は晴れやかだった。今の暮らしに心から満足していて幸せを感じているということが、言葉一つなくとも伝わってくる。
彼女が洗濯物を取り込み終えたところで、赤子の泣き声が響いた。
「あら、あら」
彼女は振り返るようにして、自分の背中に目を向けた。彼女は、赤ん坊を背負っていた。その赤子が、いきなり泣きだしたのだ。
「おー、元気だなあ」
家の中から、一人の男性が現れた。丸い目に、人懐こさの漂う口元。美男子というのは少し違うが、誰からも愛されるような面立ちである。
「おーしおーし」
男性は赤子の顔を覗き込み、目を見開いたり舌を出したりしてあやす。赤子はたちまち泣き止み、けらけらと笑い始めた。
「こいつはお父さんが好きだなあ」
へへへと笑うと、男性は歩き出した。
「あら、どちらへ?」
女性が訊ねる。
「ああ、隣村に酒を出す店があるだろう。そこに品物を売り込みに行こうかと思って」
「初めてのところですね。それならわたしたちも一緒に行きますよ」
「俺一人で大丈夫から。じゃっ」
男性がそそくさと立ち去ろうとする。
女性は洗濯物を干していた竿を手に取ると、目にも留まらぬ早業で男性に追いつき足を払った。男性は、地面に仰向けにひっくり返る。
「そういえば、そのお店には新しく若い女性が働き始めたとか? それですか?」
女性は、にこにこしながら男性の喉元に竿を突きつける。
「あー、えー、急に気が変わっちゃったなあ。のんびり品物作りでもしようかなあ」
男性は、額に冷や汗を浮かべてそう言った。背中の赤ん坊が、きゃっきゃと喜ぶ。
「まったくもう。言ったでしょう? 逃がしませんからね」
竿を男性の喉元から外すと、女性はふふと笑ったのだった。
そして、月麗は現在へ戻る。
過ぎた時は、ほんの刹那。
「あの」
月麗は、頬から手を離したばかりの女性に話しかけた。
「いえ、何でもないです」
そして、慌てて誤魔化す。会ったばかりの人にいきなり「貴方は将来ちょっと浮気者の気がある夫の手綱を取りつつ裕福ではないけど幸せな家庭を築くでしょう」などと言うわけにはいかない。変な人と思われてしまう。
いやまあ、相手も大概変わっているけれど。
「あ、もしや」
月麗を見て、女性は感嘆したかのように目を見開いた。
「あなた、観るんですね。他人の未来を」
――うそでしょ? 月麗は言葉を失った。亡き師でも、ここまで一瞬で見抜いたわけではない。一体、どうやって?
「貴方にとっても、悪い話にならなそうですね。――お伺いしますが、そのお力を邪魔というか、厭わしいものだと感じられることはありませんか?」
「それ、は」
違うと、月麗は言えなかった。
――他人の未来を観ることで、いい経験をしたことなどほとんどない。未来を言い当てられて喜ぶ人は、そういないのだ。
めでたいことでも、不吉なことでも気味悪がられる。月麗は観ただけなのに、まるで月麗が未来を操ったかのように思われるのだ。
「やはり、そうでしたか」
黙り込む月麗に、女性は歩み寄ってくる。
「だったら、渡りに船かもしれません。その力が、否応なしに使えなくなるので」
「使えなく、なる?」
はっとして、月麗は女性の目を見る。間近で見るその瞳に、嘘を言っているような色はない。本当に? 本当に、わたしはこの力から解放されるの?
「約は成った、ようですね」
女性は微笑む。目を
「――はっ」
魅入られたその刹那、変化が起こった。
「あ、いいですね。とっても動きやすそう」
女性の出で立ちが、変わったのだ。
「これなら、あの人にすぐ追いつけますね。ふふふ、絶対逃がしませんから」
袖や衿が細い上衣、両足を別々に覆う下衣。すなわち胡服だ。
「え、えっ?」
逆に、月麗があの真っ赤で豪華な衣装を着ていた。一瞬にして、お互いの服が交換されてしまっている。
「どういうこと?」
「狐に化かされた、という感じです」
そう言うと、女性は頭を下げてきた。
「すみませんが、わたしの代わりに
「輿入れ」
言葉の意味が咄嗟に飲み込めず、ぽかんとしたままで繰り返す。
「侍女たちのことを、お願いします。わたしに頼めた義理ではないのですが」
そう言って、女性は寂しそうに笑った。
「待って、一体どういう――」
月麗の視界がぼんやり霞み始めた。それに続いて、周囲の眺めも変化していく。
いや、眺めというのは正しくない。場所そのものが、変わっていくと言った方が正しいかもしれない。ぐにゃりと歪み、段々ぼやけ、世界は曖昧になっていく。なに、これ?
――どれほどの時が経ったのか。月麗は我に返った。
周囲は、世界としてあるべき輪郭を取り戻していた。狭い空間だ。といってもそれは山の中と比較してのことで、詰め込めば月麗が三、四人は入るくらいの広さはある。
四方に柱が立てられ、間に布が巡らされている。その中央で、月麗は座っていた。
空間は赤く染まっている。最初はこの空間が赤いのかと思ったのだが、違っていた。女性が鬱陶しがって撮ってしまった布が、顔の前に垂れ下がっているのだ。
自分の姿を確認する。着ている服は、多分同じ。一瞬で入れ替えられた、あの嫁入り衣装だ。一体何がどうなっているのか。
これなら、未来のことくらい話しても大丈夫だったなあ。月麗は結果論を噛みしめる。何というか、色々とあっちの方が
「
外から声がした。聞き覚えがある。これは、月麗に棍を突きつけてきた女性のものだ。
「どうぞ、お降りくださいませ」
月麗は狼狽える。何やら丁寧な言葉遣いをしているが、月麗を見るなりまた棍を振りかざして襲いかかってくるのではないか。
「大丈夫ですよ、娘娘」
そっ、と。月麗の右側の布がまくり上げられた。
「わたしたちも一緒です」
顔を出したのは、あの女性だった。その顔には、優しい微笑みが浮かんでいる。元々の月麗を叩きのめした時とは別人のようだ。
「さあ」
女性が促してくる。布で顔が分からないのか、女性は月麗だと気づいていない。月麗は、狭い空間から外に出た。
外は明るい。月麗は振り返り、自分がいたところを確認する。
それは、輿だった。至る所に宝玉があしらわれ、屋形部分の屋根には黄金の鳳だか何だかがどどんと飾られている。運搬可能な宝物殿といった趣だ。
山に来る時には米みたいな運ばれ方をしてきたのに、次は皇族みたいな乗り物で移動している。特に何をしたわけでもないのに、栄枯盛衰が劇的すぎる。
輿の周りには、何人もの女性が跪いていた。中には、棍の女性だけではなくあの茂みから飛び出してきた女性もいる。みな揃って髪が長く、留めたりまとめたりせず流している。服はあの綺麗なものだ。赤で統一された色合いは、目にも鮮やかである。
どうやら、彼女たちがこの宝物殿みたいな輿を運んできたらしい。あの、重くなかったんですか?
女性たちは、跪いたまま立ち上がろうとしない。自分だけが突っ立っているのが、何だか申し訳なくなってくる。
「お疲れ様です」
とりあえず、そう声を掛けてみる。
瞬間、辺りの空気が一変した。月麗の声を聞くなり、侍女たちが揃って仰天してきたのだ。
まるで、大切にしている宝珠を入れた箱を開けたら、中身がどんぐりか何かにすり替えられていた時のような顔だ。
「貴方は――否、お前は」
棍の女性――おそらく集団の頭目らしい女性が、愕然とした面持ちで月麗を見てきた。
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