第21話 医務室にて

ふわりと風が頬を撫でるようにすり抜ける。誰かが額に手を当ててくれている。ああ、幼い頃、熱を出したときに母親がよくやってくれたな。冷たくて、気持ちいい。

 耳に入って来るのは、可愛らしい鳥のさえずり。ゆっくり瞼を持ち上げれば、そこにいたのは奏さんだった。


「気が付いた?」

「奏さん?」

「良かった。」


 奏さんはほっとしたように安堵のため息をつくと、座っていた簡素なパイプ椅子から立ち上がり、私の頭を優しく撫でた。ゆっくり視線を動かすと、そこは白を基調とた部屋だった。私が寝かされていたベッドも真っ白なシーツが敷かれている。奏さんの後ろには仕切り用のカーテンがあり、窓からの風に揺られて、ゆらゆらと緩やかに靡いていた。私はゆっくりと体を起こした。


「ここは?」

「医務室。急に倒れたからびっくりしたよ。まだ熱も引いてないみたいだし。」


 ほら、奏さんが体温計を見せてきた。なるほど微熱だ。……あれ?いつの間に熱を測られたんだろう。でもまあ、そんなことをじっくり考えるほど今は頭が回らない上に、全身がだるい。


「医務室ってことは…あれ?」


 見渡しても保健担当の先生がいない。ここには私と奏さんの二人だけだった。


「保健の先生なら用事があるからって席を外してるよ。」

「そうですか。」

「どうする?一応病院に行くなら手配するけど。」

「大丈夫です。最近忙しかっただけですから。ちょっと疲れが出ただけです。」


身体がだるいせいもあってか、ついつい素っ気ない返事をしてしまった。


「どんな風に忙しかったのかな?」

「どんな風って…。」


 じっと見つめられる。窓から入る風は止み、鳥たちも空気を読んだのかぴたりとさえずりが止まった。シンとした空気が流れる。


「課題とか…まあいろいろとやることがありまして…。」


 我ながら歯切れの悪い言い方になってしまった。奏さんは、ふーんと私の頭から手を離し、パイプ椅子に座りなおした。


「倒れるほどの課題が出たの?それは学校に問題があるね。教師に掛け合ってみようか。」

「いえ、違うんです。課題はそんなに多いわけじゃなくて。ほら、他にも日直とか当番もあって。」

「日直ね、それについてちょっと聞きたいんだけど。」


 いつの間にか奏さんの手には私の学級の日誌があった。


「琴ちゃんが目を覚ますまでの間、勝手に読ませてもらったんだけどね。どうして三回も連続で日直をやっているのかな?」

「………。」


 どう答えたらいいんだろう。


「いろいろと…事情がありまして。」

「へえ、事情?」

「そうです。」

「じゃあ、質問を変えさせて。」

「ここ数日、何があったか教えて。」

「何もないです。」

「嘘だねー。」

「嘘じゃないです!」

「琴ちゃん。」

「なんですか!」

「そんなつらそうな顔をして泣いている子が何もないわけないでしょう。」


 その時初めて気づいた。いつの間にか涙が私の頬を伝っているということに。熱で身体が弱っているせいなのか、感情が制御できない。一度出てしまった涙は次から次へとポロポロと零れていく。


「あれ、おかしいな。何でだろう。」


 奏さんは椅子から立ちあがると、少し屈んで私に視線を合わせると、私の両頬を包み込んで涙を拭ってくれた。


「おかしいですね。泣きたいわけじゃないんです。」

「うん。」

「変ですね、止まらないです。」

「……。」

「ごめんなさい。みっともないですね。」

「そんなことないよ。それに、君を泣かせている原因は多分私にあるから…。」




「ごめんね。」



 奏さんは私をギュッと抱きしめて、背中をポンポンと優しく撫でた。



 駄目だ、優しくされると涙が止まらなくなる。

 もういいです、大丈夫ですから、何度も言おうとしたけれど、しゃくりあげる声でなかなか言葉にならない。


「琴ちゃん。」


 ひどく優しい声で奏さんは私を呼ぶ。


「ゆっくり息をして。そう、上手。」


 奏さんは私の背中を、まるで小さな子をあやすようにトントンと優しく触れた。

 そして子守歌のような鼻歌を歌う。聞いたことのない曲。海外の曲だろうか。でもそれが何だか心地よくて、心がほっとしてきた。ゆっくりゆっくり、呼吸が整っていく。涙も徐々に緩やかになっていった。


「落ち着いた?」


 私が頷くと奏さんは優しく微笑み、ゆっくり私から離れると再び椅子に座りなおした。


 段々と冷静になってくる頭。よくよく考えれば奏さんを前にして、いきなり子どもみたいに泣きじゃくる私。十五歳。……恥ずかしい。何か空気を変えなくては。私は袖口で涙を拭って口を開いた。


「うっ歌上手いじゃないですか。」

「歌?ああ、さっきの鼻歌の事?」

「はい。鼻歌でも十分上手だと思いました。」

「琴ちゃん褒めすぎだよ。」

「それだけ上手かったら本当に歌劇団に入れるんじゃないですか。」

「うーん、それは難しいなあ。」

「どうしてですか?」

「どうしても。」


 フフッと奏さんは困った顔で笑った。どうしてそんな困った顔をするんだろう。


「それじゃあ、琴ちゃん。落ち着いたみたいだし、さっきの質問をもう一度するよ。ここ数日、何があったの?」


 どうしよう、答えるべきかな。私が口をパクパクとさせていると、奏さんは何かに気付いたような急に立ち上がった。私は驚いて息をのんだ。

 そのまま奏さんは医務室の入り口の方へ歩みを進める、そして勢いよく扉を開けた。


「君は何をしているのかな?」

「えっと。」


 扉の向こうにいたのは、予想外の人物だった。


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