二百二十三 悲しみに暮れる者
(まずは名乗りを……と行きたいところだが……悲しいことに、我は決まった名を持たぬ……ひとまずこの場では、
「はい」
他人の名や素性にさほど興味のない紅は、特に詮索もせずに受け入れる。
ソロウは別の反応が欲しかったのか、紅の即答に少々物足りない様子だったが、結局そのまま話を続けた。
(……薄々察しはついていようが、この結界は我を封印するために築かれたもの……この都市ごと幽閉されて幾星霜……肉体は朽ち果て、思念のみが残り、もはやどれだけの時が経ったかも知れず……すでに己が何者かも、この憂き目に遭った経緯すら曖昧になるほど記憶も薄れている……)
ソロウは悲哀を浮かべた顔で、
(……いずれ無常なる時の流れに消え去るのみかと諦観に沈んでいたが……この度帝国とやらが一計を案じ、お前をここへ放り込むため、わずかに封印を緩めたのだ……)
「やはり。元々あった結界の流用でしたか」
推測が正しかったことは証明されたものの、事態を好転させる材料ではなく、紅は小さく肩をすくめた。
出口を目指していたはずが、本来の虜囚がいる最深部へ到達してしまったのだから、皮肉と言う他なかった。
しかし、まだ希望が完全に断たれた訳ではない。
会話の中で新たに生じた疑問を、紅はすぐさま口に出していた。
「あなたはそこまで知りながら、なぜ脱出しなかったのですか?」
(……悲しいかな……我は永らく
ソロウはもったいぶるように一度言葉を切り、広大な空間を仰ぎ見た。
(……我の思念は今やこの結界と同化しており、ある程度各地の状況を把握できる……脱出こそ叶わなかったが、封印が再び閉じる前に、出口の座標を特定することには成功したのだ……)
「それは朗報です。すぐに移動できる場所なのですか」
出口に繋がる情報とあって、紅は思わず声を弾ませる。
(そう急くでない……目星はついたと言えど、内側から封印をこじ開けるのは至難の業……相応の儀式が必要だ……そこで我は思案した……脱出こそ失敗したが、折よく外界から素材が大量に降ってきた……これを活かさぬ手はないと……)
ソロウは意気込む紅をやんわりと制し、周囲に広がる地獄絵図を指差した。
(これらは手近な領域から引き寄せた供物なり……絶望を与え、負の感情を搾り取って我の糧とする……しかる後、骨肉を用いて儀式のための祭壇を組み上げ、封印の解除を試みるのだ……)
その言葉通り、ソロウの背後には解体された無数の骸がうず高く積まれ、巨大なものを形作ろうとしているのが覗えた。
「なるほど。無駄がありませんね」
(そうであろう……彼らも放置していればただ朽ち果てるのみ……それではあまりに虚しい……なればせめて余すことなく役立ててこそ、意味のある死を与えられるというもの……)
ソロウは哀悼の意を示しながらも、人間を術の材料とすることにはまったく抵抗がないらしい。
本人は自覚していないようだが、当時の人々が封印を決めたのも頷ける、危険な思考の持ち主であると言えよう。
もっともそれは紅も同じこと。どうせ廃人となっているのだ。敗者を脱出の踏み台として使うことに何の異論もなかった。
(……疑問が解けたのなら、我は作業に戻る……まだ完成にはしばし時が要るのでな……不甲斐ないことに、何のもてなしもできぬが……邪魔をせぬ限りは好きに過ごすことを許す……)
「そうですか」
ソロウが作りかけの祭壇へ向き直ると、紅は聞き出した情報を吟味しつつ、散策をすることにした。
今のところソロウからは敵意を感じず、嘘をついている様子もなかった。純粋に外へ出たいという欲求のままに動いているのは確かなようだ。
ソロウの周囲に渦巻いていた魔力は、今の紅ではまだ読み解けないほど複雑で濃密なものだった。魔法使いとして相当な高みにいることは想像に難くない。
その力はウィズダームの魔道兵を遥かに凌駕するはず。
自分の剣が通じるかどうか、興味がないと言えば嘘になる。
すぐにでも刃を向けたい衝動に駆られる紅だったが、理性で無理やり抑え込んだ。
今は下手に動かず、儀式とやらの完成を待ち、便乗して脱出するのが先決である、と。
術者当人ですら難しいと断言する儀式である。下手にちょっかいを出して失敗してもらっては、紅自身も困るのだ。
腕試しは脱出してからでも遅くはない。
そう己に言い聞かせた紅は、暇潰しと気晴らしを兼ねて休息を取ることにした。
思えばソーサリアへ攻め入ってから、一度も休んでいないのだ。それを自覚した途端、紅は軽い空腹を感じた。
「腹が減っては戦はできぬ。となれば」
紅は周りで悶え苦しんでいる兵の中から、比較的身綺麗な者を選び、鋭く首を打って気絶させた。
そして荷物を漁ると、お目当てのものはすぐに見つかった。
「ふふ。やはり。これほどの練度の軍なら、きちんと常備していると思いました」
紅が嬉しそうに背負い袋の中から取り出したのは、小ぶりな水筒と油紙に包まれた乾パン。つまりは
戦が始まってからまだ数時間。それらは鮮度を保っており、乾パンは湿気っておらず、水も生臭くはない。このような不毛の地では十分御馳走と呼べるだろう。
「ありがたく頂きましょう」
紅はほくほく顔で適当な瓦礫に腰かけると、束の間ゆっくりと食事を楽しんだ。
(……黒衣の娘……)
栄養補給を終え、しばし仮眠を取っていた紅の頭に、ふとソロウの念話が響いた。
(……返事はいらぬ……聞こえているならば、
一方的に念押しした後、沈黙が戻って来る。
「はて。何事でしょうね」
紅は立ち上がって軽く伸びをすると、広場の中央へ向けて風のように駆けだした。
十分英気を養ったお陰か、その身には一層力が
瞬く間に兵らを跳び越え、ソロウのすぐそばへ降り立つ紅。
(……来たか……想定よりずいぶんと早い……)
「何の御用ですか」
開口一番本題に斬り込んだ紅に、軽い感嘆を見せたソロウは顔つきを引き締めた。
(……率直に言おう……祭壇は完成したが……計算の結果、ここにいる
「はて。それは残念ですが、魔法に詳しいあなたが解決するべき問題でしょう。私に何ができると?」
(……無論、打開策はある……それにはお前の協力が不可欠……お前は他の者より強靭な精神を有している……一人で不足分を埋められよう……仮にも恩を受けた上で、かようなことを頼むのは心苦しいが……その身を差し出し、我に絶望を捧げてくれまいか……)
悲壮な表情で手を伸ばすソロウへ、紅は不思議そうに問い返す。
「私を拷問しようと言うのですか?」
(……然り……お前には呪詛が効かぬ……ならば肉体的な苦痛を与えねばなるまい……生かさず殺さずの
「苦痛を糧に、ですか。ならばもっと効率が良さそうな方法がありますよ」
(……何……?)
話を遮られたソロウが怪訝に聞き返すと同時に、その右肩から先が前触れもなくぼとりと地に落ちた。
「このように。あなたが自ら痛みを感じた方が早いのではありませんか」
斬る口実が出来たとばかりに、紅は満面の笑みで切っ先をソロウへ突き付けた。
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