二百二十二 奈落の虜囚
(……悲しい……悲しい……)
一度はっきりと聞き取った念話は、意識を向けずとも紅の頭に響くようになっていた。
紅が当初の目的通り、再び街の広場へ歩み始めた後も、不規則に陰鬱な囁きが聞こえて来る。
(……侘しい……虚しい……口惜しい……)
失意。落胆。悔恨。悲憤。
一言一言に実際の重圧を伴う強烈な負の感情が込められており、紅の身体と精神を蝕もうと幾重にも絡みつく。
「この声の主は、どうにも陰気な方のようですね。黒竜や魚人の傲慢さが、いっそ清々しく思えます」
常人が聞き続ければ容易く発狂するであろう呪詛の鎖を、紅は軟弱者の
やがて、かつては賑わっていたと思われる大通りに出ると、広場の方角から徐々に喧騒が聞こえてきた。
「はて。先程は何も感じませんでしたが」
紅が首を傾げながらも広場の入り口へ近付いていくと、騒音はますます大きなものとなり、はっきりと大勢の人々が発するざわめきだと認識できた。
着用している装備の音からして、全員帝国兵らしい。ざっと数百人はいるようだ。
恐らく中央門の裏にでも配置されていた予備兵だろう。
城壁の崩壊に巻き込まれ、紅とは別の経路を辿ってここへ漂着したと考えるのが妥当か。
皆一様に地面へ倒れ込み、口々にうわ言を繰り返しては、悲鳴や
それもそのはず。
広場一帯には呪詛に満ちた言霊が特に強く渦巻いていたのだ。
紅には効果がなかったが、兵らは耐え切れず精神が汚染されてしまったのだろう。
この特異な現象のせいで、近付くまで探知が阻害されていたようだ。
(……悲しい……嗚呼、悲しい……かような仕打ちをせねばならぬことすら痛ましい……)
広場に踏み込んだ紅が周囲の状況を探っていると、これまでより特に鮮明な念話が届き、発信源が定かとなった。
広場の中心。丘のように小高くなった場所に、唯一己の足で立っている者がいたのだ。
紅はその人物を目指し、廃人と化した兵らを踏み越え、真っすぐ中心部へ向かう。
(……悲しい……苦しい……さりとてやめられぬ……なんと無常極まることか……)
「もし。何がそれほど悲しいのですか」
こちらに背を向けて何やら作業に没頭している者へ、紅は気安く声をかけた。
その瞬間、びくりと体を震わせた反動で、手元の何かをぼきりと音を立ててへし折った様子が伝わる。
(……まだ正気の者がいたとは……悲しいかな……狂った方が楽であろうに……)
呟きながらゆっくりと振り返ったのは、どうにも覚えのある背格好の男だった。
「はて。もしや大将首の方ではありませんか。これは奇遇ですね」
一度敵と認め、匂いを覚えた者を紅が間違えるはずがない。
二刀を失い、鎧も防御魔法が切れたのかあちこち破損しているが、そこにいたのは確かにラズネル中将であった。
「よくぞあの状況で生きていましたね。今度こそ決着を付けましょう」
紅は喜色満面で鯉口を切るが、土気色の顔をしたラズネルは眉をひそめ、手にしていた人骨らしきものを背後の台へ置いた。
(……悲しいかな……誤解を招いてしまうとは……)
「はて。誤解とは」
紅の問いに、ラズネルは胸元に手を当てて答える。
(知り合いとなれば、落胆させてしまうのは心苦しいが……この肉体の主はとうに死んでいる……しかし我が思念がよく馴染んだ故、器として利用しているのだ……)
「つまり、別人が死体を操っていると?」
(その解釈で良い……因縁があるなら斬っても構わぬが、虚しいだけだと言っておこう……)
「それには及びません。死んだのなら、生き残った私の勝ち。それだけのことです。生きている間に首を獲れなかったのは残念ですが」
獲物が生きていたとぬか喜びした直後であったが、紅はあっけらかんと言い切った。
紅が興味を示すのは、戦そのものと、刃を
「ところで。その物言いですと、あなたはこの結界の先客のようですね」
相手の正体が人外の者と判明しても、態度を変えずに会話を続ける紅。
(まさしく……人の子の奸計にはまり、むざむざ奈落に堕とされた滑稽な道化と笑うがいい……む、いや、待て……)
悲劇の主人公とばかりに大げさな身振りを見せるラズネルもどきだったが、不意に中断して紅をまじまじと見つめた。
(……あまりに自然体だった故、ついそのまま対応してしまったが……お前は何だ……どこから入り込んだ……我が呪詛の中で平然としている上、念話を理解できるとは……只者ではあるまい……)
途端に警戒の色を帯びるも、すぐに思い直したように霧散する。
(……ふむ……その姿を見て、この身体の記憶が呼び起こされた……お前のお陰で一時封印が解かれたのか……間接的ではあるが、我に
「話が見えませんね。一人で納得せず、詳しく説明して頂けますか」
突然態度を改めたラズネルもどきに、紅は当然の権利とばかりに問いかけた。
(……よかろう……我が悲哀に満ちた遍歴を、とくと聞くがよい……)
役者のように大仰に両手を広げると、ラズネルもどきは身の上を語り始めた。
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