紫陽花をしゃがんで見ている河童の子
可愛いのに残念でした。別にどこが悪いとかいうことではないような気もします。こういう句もあって良いと思いますし、俳句だから河童や火星人は詠むなということではないでしょう。この微笑ましさをとるか、別の紫陽花の句の方により大きな魅力を感じるかの問題でしょうか。中八の字余りですが、さほど妨げに感じませんでしたし、雰囲気的にもさすがに「見てる」にしたいとは思いません。来冬さんの河童は笑顔で花房を抱っこしていたそうですが、友未の河童はとても真剣な顔で見つめていましたよ。
紫陽花やペアで買い足すマグカップ
試しに「紫陽花」を他の花名に変えてみた時、やっぱりこの句は紫陽花でなければいけないんだという強い必然性の表明が紫陽花に「や」を付けることではないかと思うのです。その部分をより掘り下げてみて欲しいと思いました。
紫陽花の雨や実朝公の下駄
こんなに風雅な歌(と呼びたくなるほどの美しさ)、友未には詠めません。静けさとわびしさのなかにひっそりと姿を現した一抹の懐かしさ。濡れた下駄先の感触や雨粒の冷たい音までがはっきりと伝わって来ます。イジメられない!
作者からの返信
河童の句をこういうのもあっていいと言ってくださって、ありがとうございます。「遠野物語」のように、日本の文化には河童のような存在を楽しむ大らかな一面があると思います。キリスト教圏のような人間だけが神の子という変なプライドが無いせいでしょうか。
紫陽花やの「や」ですね。はい、よく考えてみます。
実朝の歌、気に入って頂けて嬉しいです。季節感を手掛かりにして古典文学を読み解く楽しみが、温暖化で失われてしまうのは悲しいです。
実朝といえば鎌倉、鎌倉といえば紫陽花、紫陽花といえば雨。
いい感じで映像が切り替わっていきます。そこへ下駄の登場。実朝公が履いた下駄の音は、雨の鎌倉を楽しんだものか、それとも雨の鎌倉で討ち取られた時のものか、読み手に色々な想像を与えてくれますね☆
作者からの返信
愛宕師匠! コメントありがとうございます。
詠んでから、「あれ?鎌倉時代初期に下駄ってあったの?」と気になって、あれこれ調べましたが、下駄そのものはだいぶ古く、弥生時代までさかのぼれるそうで、元々は農具だったそうです。「雨の日は下駄だよね~」となったのは、平安時代以降でした。
愛宕さんの鑑賞は句よりも広がりがあって美しくて、感激です。
お邪魔します。
去年の大河ドラマは楽しんで見ていました。その中の実朝さんは武将としてはどうかなという感じでしたが、とても優しくて誠実で、時代が違えば良いリーダーになれたんじゃ無いかなと。そして風流人でした。
雨の中を時々紫陽花に足を止めながら歩く実朝さん。水を含んだ砂利を踏む下駄の音が聞こえて来そうです。
河童の子も可愛い画像が浮かびます。頭のお皿に上の紫陽花からぴちょんと水滴💧なんて画も。
ちなみにオタクサって言うお菓子、いただいたことがあります。美味でした。
作者からの返信
りりさん、ありがとうございます。
「オタクサ」あるんですね。ぜひ食べてみたいです。河童はすごく可愛いイメージで書きました。そのイメージが伝わって嬉しいです。実朝さんは文学青年で暗殺のイメージとはほど遠いですが、それでも殺されてしまったことが悲しいです。
編集済
紫陽花をしゃがんで見ている河童の子
とても可愛らしい句ではありますが、夏井先生なら減点するだろうなのポイントが、パッと見2つあります。
1.季語が主役か
俳句の構成が、
季語「を」動詞「〜している」河童の子
となっています。
となるとどう見ても主役は「河童の子」です。
原因は季語の後の「を」が上句全体を説明的にしていると愚言します。
2.中八問題
五七五型の中八は単純に読んだ時のバランスが悪いです。
ましてや「〜している」の説明的な部分を後押しているから尚更です。
俳句ならば現在進行形にしなくても描写が出来ると思います。
添削するならば、
「紫陽花やしゃがんで見るは河童の子」
でしょうか。
短歌畑の人間が生意気言って
すみませんでした。
作者からの返信
大和田よつあし さん
有り難い御指摘をありがとうございました。
ほんとうに大和田さんお仰る通りです。生意気なんてとんでもないです。先生とお呼びしたいです。言われてみて、そうかと理解はできましたが、自分では気づけませんでした。さっそく直したいところですが、フェアではなくなってしまうので、このままにしておきます(^^;) 御指導ありがとうございました。