第2話 塙保己一

 姉の死は、貯水池に落ちたことによる溺死、ということで処理されることになるようだった。遺書はないが、自殺であるだろう、とのことだった。

 諸々の手続きを終えると、終電にぎりぎり間に合う時間だった。

 夜遅い時間のJR高崎線。人はまばらだった。駅の周囲は沈んだように暗く、明かりらしい明かりは、駅のホームの蛍光灯だけだ。

 一車両にひとり乗っているかどうか怪しいくらい空いた電車に乗り、東京に帰る。ミチカも、叔父も、口を閉ざしたまま。口を開けば、お互い「ごめんなさい」と言ってしまいそうだから。

 電車は群馬県を出発すると、すぐに埼玉県に入った。

 イントネーションの妙な本庄駅に停車し、ミチカはふと顔を上げた。

 駅のホームに、地元の宣伝のために立てられたであろう看板が見えた。

「はなわ、ほきいち」

 はなわ保己一ほきいち生誕の地。

 看板には、そう書かれていた。

 ミチカのつぶやきで、隣でうつらうつらしていた叔父が目を覚ます。

「塙保己一、か」

「うん」

 多分、叔父も、ミチカと同じことを思い出している。

 ミチカの脳裏によぎったのは、亡くなったばかりの姉のことだ。

 出版社に勤務していた姉は、日本史好きな歴女だった。大学時代は史学科に在籍し、卒業論文は「群書類従ぐんしょるいじゅう」の研究だった。



 ーー信じられない! 塙保己一も知らないの? 今まで何を勉強してきたの!



 姉の罵る声がミチカの中で蘇る。

 姉にとって、塙保己一は一般常識だった。

 罵られ、文芸誌を投げつけられ、号泣され、そこで初めて、ミチカは塙保己一のことを調べた。

 塙保己一は、江戸時代の国学者。埼玉県本庄市児玉町の出身。幼少期に失明したが、江戸に出て学問の道に進んだ。和学講談所を開設した人でもある。

 塙保己一には、逸話が多々残されている。

 「群書類従」の版木の字数が原稿用紙の一般様式の元であること。塙保己一が編纂した「令義解りょうのぎげ」に女医の前例があったことを根拠に、荻野吟子をはじめとして女性も公認の医師になれたこと。ヘレン・ケラーの母が塙保己一のことを知っていてヘレンに話したこと。塙保己一の先祖は、百人一首の歌人のひとりである小野篁であること。

「・・・・・・ごめんなさい」

「ミチカちゃんは悪くない」

「でも」

「今後のことは、改めて考えよう。ミチカちゃんは、しばらくゆっくりしなさい」

 電車に揺られ、叔父は再び寝てしまった。

 自分は駄目だな、とミチカは思った。

 何事においても姉を怒らせてばかり。有り体に言うと、最近は義務感から姉に接していた。つらい、とは思った。

 それでも。ミチカにとっての姉は、子どもの頃に手を引いて導いてくれた、恩人である。

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