赤く光る空

「牛が、ウッシッシ……」

「肉が食べたいのか?」


 芋料理品評会を終えた夜、俺がグフグフ言っていたのを見てか、賢丸様が怪訝そうに声をかけてきた。


「さにあらず。此度の牛はそのお乳を使うのです」


 俺がつい漏らしてしまった一言から、渋井様に今も乳牛の育成が続いていることを教えてもらった。


 かつてこの国でも、蘇とか醍醐という乳製品があったそうだが、酪農の歴史が途絶えたことでその製法が伝わることはなく、ようやく復活したのは享保年間。


 当時将軍であった吉宗公が安房嶺岡牧で白牛 3 頭の飼育を始め、そこでバターやキャラメルの原型と思われる牛酪を作っていたことは昆陽先生から聞いていたが、それが今も手に入る可能性があるとは……料理のバリエーションが増えるじゃねーかコノヤロー(歓喜)。

 

 その後も白牛の飼育は続いており、交配によって個体数も当時より増えているそうで、これを手に入れようというわけだ。ホルスタインとは別種のようだけど、牛乳が手に入るなら種類は何でもいいよね。


 そしてどこでそれを飼うのかといえば、佐倉七牧という幕府が管理する牧場が下総にあって、そのうち三牧は佐倉藩が管理委託されているとか。そこに牛を連れてきて飼うという寸法だ。


「また父上にお願いするのか?」

「乳製品は栄養価も高く、また美味でございますれば、必ずや気に入られると信じております」


 当然そのためには幕府の許可が必要なので、堀田様からの上申に併せて、宗武公のお口添えも必要になるだろう。そのためには導入による利点を説く必要がある。


 まあ……じゃがバターで万事解決よ(楽観)。




「しかしジャガタライモだったか? よく食べようと考えたな」

「元々は食用だと聞きます。我々が食す、河豚フグ海鼠ナマコ、魚の白子、栄螺サザエなどの貝類なども、食べ慣れぬ異国の者が見たら『なんてものを食べているんだ!』と驚きますよ。お互い様です」

「お主は開明的な考えの持ち主じゃのう」

「恐れ入ります」


 賢丸様は俺がずっと側に仕えていることもあってか、新しい知識を忌避せず受け入れる素養が育まれており、将来が楽しみだ。


 現将軍には家基様という若君がいるし、田安家も治察様が奥方を迎えられたので早晩お子を成すであろう。そうなると賢丸様がどちらかの跡を継ぐ可能性は少なく、いずれはどこかの大名に養子入りするのだと思う。そうなれば、将来は老中や側用人など、幕閣の中枢で辣腕を振るう……


 と思ったのだが、そう言えば家治の次って、えーと家斉だっけ? たしか一橋家からの養子……ということは、家基様は死ぬ? そんな名前の将軍はいないし、そうでもなければ養子に入らないよな……田安家も何か一悶着あったような……


 賢丸様はどうなるんだ? 歴史上の人物は成人後の名前しか教わらないから、幼名とリンクしないんだよな。ただでさえこの時代の人って何度も改名したりするから、正直よく分からん。徳川家康の竹千代くらいメジャーならすぐに分かるんだけど……




「火事だあーー!!」




 俺が頭の片隅にあった日本史で学んだ記憶を思い返していたら、陣屋に詰めていた村の若い衆が表で走り回っていた。


「安十郎様、火事と聞こえましたが」

「状況が分かりませんので一旦表へ出ましょう」


 不安そうな顔で種姫様がこちらの部屋にやって来たので、心配ありませんよと落ち着かせつつ、賢丸様と顔を合わせて頷きあうと、状況を確かめるべく表へ出てみた。


「なんだ……あれは!」


 そこで俺たちが目にしたのは、北の空一帯が天まで赤く染まる光景だった。


「あれは……何ですの」

「火元は隣村、もっと遠いか」

「いや、火事とは少し違います」


 江戸でも火事で空が赤くなることは何度か見たが、それとは全くの別物。空全体がぼやっとしてくすんだ赤色に染まるこれまで見たこともない異様な光景に、賢丸様と種姫様がゴクリと息を飲んだ。


「安十郎様、種は恐ろしゅうございます。何か良くないことの前触れなのでは……」


 怖がって俺の袖をギュッと握る姫様を宥めるが、上手い言葉が思いつかない。


 何しろ不気味な色だ。明治時代ですらハレー彗星が接近したときに、地上から空気が無くなるというデマが巷間で流布されたと聞くし、江戸時代なんてそれはもう、迷信、言い伝えが未だ信じられている時代。不思議な自然現象を何かの前触れと考えるのは日常茶飯時であり、害はありませんと言っても疑念は晴れないと思う。


 ただ、俺には分かる。見たのは初めてだけど、あれは多分オーロラだ……


 オーロラと言うと緑色っぽいイメージだけど、それより高い位置で発生したものは赤く光り、希にとても大きなものが発生したときに、北海道でもその赤い部分が見えることがあると聞く。


 過去には本州で目撃された記録もあるとかで、藤原定家の日記か何かにそんな記述があるって記事を見た記憶がある。たまたま今日それが見える日だったのだろう。




「安十郎様……」

「姫、心配はいりませぬ。この安十郎が付いております」


 不気味な光景が余程恐ろしいのか、俺の袖を掴むだけだった姫様が身を寄せてきたので、怖くないですよと頭をポンポンと撫でてあげたが、するとどうだろう、余計に俺にしがみついてきた。


「約束ですよ。種の側にいてくださいませ」

「はい、大丈夫ですよ」


 その光景を見て賢丸様が、「そういうときは実の兄を頼りにするべきでは……?」という何とも言えない表情をしていたのは見なかったことにしよう……

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