第70話 心機一転
「――ううん……?」
意識が微睡の水底から浮上する。
瞼が徐に開かれ、普段寝泊まりしている自室の天井がぼやけて映っていた。
「……あ、起きた?」
「ぇ? ……ぅん」
他人の声に脊髄反射で相槌を打つ。
「……ん?」
徐々に頭が覚醒しつつあるなか、俺は間近から聴こえてきた女性の声に違和感を憶えた。
アンナでもなく、エミリィさんでもない。聞き覚えはあるが、ずっと前から知っているわけではない。ましてや、この家には居ないはずの人間のものだった。
「もう、お寝坊さんね」
「……は?」
もう一度聴こえてきたそれを、今度ははっきり聞き取ることができた。鈴を転がすように上品で、危険を感じるぐらい甘い声。
そう、間違いない。彼女は――
「なんで、リンファが俺の部屋に……?」
昨日俺たちのパーティに加入したばかりの新人冒険者がそこにいたのだ。真横から両腕をベッドに乗せてもたれながら俺の顔をじっと見つめている。
「えー? カズキってば、もしかして……“覚えてない”の?」
「え? は? 覚えてないって……一体なにが」
状況がまるで飲み込めていない俺を余所に、リンファは妖しく微笑んだ。
「昨日の夜……あんなに“イロイロ”と“して”あげたのに……」
「……はぁ? ……はぁ!? えッ!?」
女性とお付き合いをしたことが無くその手の機微に疎い自分だが、その言葉が指し示す意味が分からないほど鈍感ではない。
「ちょ……マジ? え? そ、そういえば。昨日酔い潰れてからの記憶が……ッ」
昨夜、酒場でどんちゃん騒ぎをした記憶を懸命に辿るも、ビール12杯目を喉に流して以降から今の今まで一切合切何も憶えていない。……つまり、その間に俺が一体ナニをしでかしてしまったかを知る術が無いのである。
「あの、リンファさん。俺……なんかやっちゃいました?」
「んー? うん。イロイロと……ね」
リンファは意味深に小首を傾げてみせる。俺は背中に嫌な汗を掻きはじめていた。
「あの……ホントすんませんした……。いやまじで……」
「謝らなくていいわよ? ――それより」
すると彼女は軽業師のごとき身のこなしで空中を側転し、ベッドに横たわる俺の体に跨ってきた。
「いっ!?」
あまりにも唐突かつ速すぎる動きに見切れず、馬乗りを許してしまう。咄嗟に抵抗しようとする俺の両腕を掴んで組み伏せると、顔をそっと耳元に寄せ、囁いた。
「――続き……しちゃう?」
ゾクっとした感覚が全身を奔る。間近に迫ってきた見惚れるように美しい顔立ち。寝巻きの薄い生地越しから伝わる、鍛えられた武道家らしい無駄な贅肉のない健康的な四肢と、ふくよかな胸の柔らかい感触。そして、酔いしれるような女の子の甘ったるい匂い。
それらが一挙に押し寄せてこちらを誘惑してくる。しかし本能に全てを委ねたくなるのを俺はぐっと堪えた。
「だ、だめだ……っ。リンファ! これ以上は……」
「――あ」
そのとき、俺の上に直に跨っていた彼女があることに気づく。
そう。男性なら誰もが経験する、朝起きたときになる“あの現象”が起こっていることに――
「いや、ちがっ! これ生理現象だから!」
「……ふぅん?」
しかし彼女は聞く耳を持つ様子は無い。獲物を捉え、優越感に浸る肉食動物のような笑みで、こちらを見下ろしていた。
抜け出そうにも彼女の拘束する力は存外に強く、そしてそれ以上にこちらの理性が揺らいでいる。まさに絶体絶命の危機を迎えようとした、そのときだった。
「カズキ~、おはよ~! リンファさんも!」
――救いの女神が顕れた。
アンナはドアを開けるなり、ベッドの上で取っ組み合う俺たちのことを不思議そうに見る。
「……ふたりとも、なにしてるの?」
アンナは穢れなき眼差しで純粋な疑問をぶつけた。
「ちょうどよかった! たすけ――ふぐっ!?」
「ううん! 気にしなくていいのよアンナ。カズキがなかなか起きなくて、叩き起こそうとしてただけだから」
リンファは、アンナにSOSを求める俺の口を塞ぐと、不自然なほど爽やかな笑顔を浮かべてそう言った。
「ふーん? そうなんだ? ……あ、そうだ。昨日は私とカズキのこと介抱してくれてありがとね!」
「そんな、別にいいのよー? あれぐらい大したことないってー」
「そんなことないよ! 私とカズキで一緒に吐きまくっちゃって、すごい迷惑かけてたよね! ごめん! ……うっ、やば……。思い出したらなんだか……」
すると、アンナの顔色がみるみるうちに青くなっていく。
俺はこの展開を知っている。これから起こりうる最悪のシナリオが脳裏にありありと浮かんだ。
(ま、まずい……ッ! アレは……ッ)
「え、なに? どうしたの?」
「うん、大丈夫。多分、うん。あー、うーん、――オロロロロロロロロ」
――アンナの口から荘厳なナイアガラの滝が流れた……
「ぎゃあああああ!?」
「うええええええッ!?」
◆
「――で、なんでリンファがまだここにいんだよ」
「そんな言い方はないんじゃあない? 一体誰が介抱してあげたと思って……んっ……あ、コレ美味しい♪」
小鳥の囀りともに迎える朝食の時間。その何気ない日常の一幕に存在しないはずのリンファが俺たちと同じ食卓を囲みながら、エミリィさん特製スクランブルエッグに舌鼓を打っていた。
アンナや彼女自身が言っていたように、昨夜呑みすぎてダウンしていた俺とアンナを、エミリィさんと一緒にこの家まで運んで介抱してくれたらしい。
つまり彼女の言っていた『“イロイロ”と“して”あげた』というのは、決してやましいコトでは無かったのである。
「たしかに君には迷惑をかけたと思ってるよ。でもだからってあんな悪ふざけは……」
「えー? 私は別にハッキリと“そう”言ったわけじゃないのに。勝手に勘違いしたのはそっちでしょ? それにあそこも――」
「だー!! ストップストップ!」
彼女が危ないことを口走ろうとしていたのを俺は慌てて止めに入る。
「と、ともかくだな。家まで運んで介抱してくれたのはいいが、どうしてこの家にいるんだ? まさかここに住むとか言わないよな?」
「そのつもりだけど?」
「……へ?」
平然と答える彼女に、俺とアンナは目を丸くする。
「リンファさんここに住みたいの?」
「ええ。賞金稼ぎをやっていた頃は日毎に違う宿に泊まったり野宿したり適当にやってたけど、こうしてアルルの街の冒険者ギルドに所属することになった以上、根を下ろした方がいいと思ってね」
「理屈は分かるが、だからってなんでまたウチに……。それにアルルには冒険者御用達の宿が幾つかあるだろ。その手のは冒険者割引が適応されててお得だし、部屋もサービスも悪くないと思うぞ?」
さすがに今住んでいるこの一軒家には引けを取るが、俺がかつて利用していた宿もそれなりに快適だった。わざわざここに拘るような理由は無いはずだが……。
「このパーティーメンバーは皆揃ってここで生活してるんでしょ? 私だけ仲間外れだなんて寂しいわ~」
リンファは芝居がかったように言いながら、唇を尖らせてみせる。
巫山戯た言い分はともかくとして、彼女を招いてはいけない理由も見つからないため、俺は言葉に詰まってしまった。そもそも俺自身この家にお世話になっている身でもあり、自分一人の一存では決めかねるので、先ほどから粛々とスクランブルエッグを口に運んでいるエミリィさんに判断を仰いでみることにした。
「いいんじゃあないでしょうか?」
「え?」
しかし、エミリィさんは驚くほどあっさりと了承する。
「同じパーティーメンバーだから寝食を共にするという考えもまぁ分からなくもないですし、それにまだ部屋も一つ余ってますから、今さら同居人がひとり増えても問題ありませんよ。むしろ人手が増えるのは大歓迎です。リンファさんは手先が器用そうですし、家事全般を卒なくこなせそうです」
「ならアナタの期待に充分添えられると思うわ。一時期リーと生活していたのだけれど、あの人家事がてんで駄目だったから私一人でいろいろやってたのよ。炊事・洗濯・掃除なんでもござれ」
「ほお、それは喜ばしいですね。おふたりとも、よろしいですよね?」
「うん、いいよ!」
「アンナとエミリィさんがいいなら……」
「――決まりですね。よろしくお願いします。リンファさん」
「こちらこそ。改めて、これからもよろしく頼むわ。アンナ、エミリィ、そして……カズキ?」
リンファはこれから同じ屋根の下で暮らす者たちの顔を一人ずつ眺めてから、最後に俺を見て妖しげに微笑むのであった。
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