第7話 降伏の茶色いハンカチ
2限が終わり、俺が教室へ戻ると転入生への人壁はすっかり息をひそめていた。
さすがにもう飽きたのだろう。
人間とは慣れる生き物だからな。
なぜか、悟ったような気分になった俺は、悦に行って自席に着いた。
「どこに行ってたの?」
座るなり、転入生が声をかけてくる。
「いかがわしい店」
「……授業をサボって?」
ふと気づくと、転入生の机の上には次の授業――現国用の教科書が置いてあった。
「……教科書、持ってんじゃねーか」
「あ、これ? 委員長さんが風町先生に言ってくれて、今日の分の教科書、予備のやつから借りてくれたの」
なるほどな、さすが禮華。
こういう所は抜かりがない。
「なら、もう机をくっつける必要ねーだろ。さっさと去ね」
俺はしっしっとジェスチャーで追っ払う。
「静馬君はあたしの事、キライ?」
なぜか瞳を潤ませて、上目遣いに訪ねて来る。
「その芝居がかった態度やめろ。見ててムカつく」
「ちぇー」
そう言うと、転入生はあっさりと机を元に戻した。
つーかこいつ、俺がいない時も机をくっつけっぱなしだったのか?
「いやぁ~、すっきりしたぁ」
前の席のアホが戻ってきた。
手が濡れており、トイレ帰りと思われる。
「お前……濡れた手を振るんじゃねぇ、水滴が飛んでくるだろうが」
「あ、悪りぃ悪りぃ。ハンカチ忘れちゃってさぁ……てへ」
「『てへ』じゃねーよ。コロすぞ、マジで」
「師岡君、ハンカチ貸してあげようか?」
なんと、転入生がハンカチを師岡に差し出した。
「えぇ?! い、いいの、神影さん?!」
「うん」
「ま、マジか?! つ、ついにキタァ! お、おおお、オレのぉ……オレの時代があぁぁぁ!!!」
驚喜に打ち震え、自分の机にヘッドバッドをかまし出す師岡。
ここまで来ると滑稽を通り越して、もう恐いよオマエ。
「……いいのか、ハンカチ渡しちまって?」
俺は思わず転入生に尋ねた。
「え? うん。だって、あたしのじゃないし」
「はぁ? あたしのじゃないって、じゃあ誰の――」
言いかけて、そのハンカチを良く見る。
それは焦げ茶色のハンドタオルだった。
決して高級などではなく、なんならコンビニでも買えるレベルの質。
はて? どこかで見たような――
ガバッ。
正気に戻ったらしい師岡が顔を上げる。
額から血を滲ませ、震える手で転入生からハンカチを受け取ろうとする。
「――待て」
俺は転入生からハンカチをひったくる。
「何だよ、静馬。まさか嫉妬かぁ? いやはや、見苦しいねぇ、男の嫉妬というやつは。ははは、何、そこまで言うならオレの次に貸してやろうか? あくまでオレの次に、だけどなぁ! はぁーはっはっはっはっ!」
バカ笑いをしてのけ反る師岡。
「アホか。よく見ろ、これは俺のハンカチだ」
俺は転入生から奪い取ったハンカチを広げて見せた。
「はぁ? 何言ってんだ、お前? 確かに女子にしてはデザインがちょっと男向けっぽいが……」
「だから、これは俺のハンカチだっての。おいお前、これをどこで手に入れた?」
「お前じゃない」
「あぁ?」
転入生はプイっと顔を背けた。
「あたし、神影姫更って名前がちゃんとあるんですけど?」
……ほほぅ、いい度胸だ。
この俺と取引しようってか。
いいだろう、だが俺はそう易々とは折れてはやらない。
「わかったよ、転入生。お前なんて呼んで悪かったな。これからはちゃんと転入生と呼んでやる。な、これでいいだろ、転入生?」
「……あたし、寂しかった」
「……はぁ?」
「転入初日なのに、隣の人は授業サボっていなくなっちゃうし。教科書なくて授業で当てられても答えられないし。しかも名前までお前呼ばわりで……」
ぐすっ、と鼻をすすり出す転入生。
「…………わぁったよ、悪かったよ。全部、オレが、悪かった」
まったく悪びれずに言ってやった。
「……それで?」
「あぁ?」
転入生はじぃっと俺の瞳を見つめて来る。
「悪かったら、どうだっていうの?」
……ちっ。
面倒臭ぇヤツだな、ったく。
「…………神影」
ぽつりと呟く俺。
「さぁ、これでいいだろ?」
「……下の名前がいい」
厚かましいオンナだなぁ!!
「わかった! お前の事は今から『姫更』と呼んでやる、泣いて許しを乞うても、もう遅いからな!」
「うん!」
途端にパァっと表情が明るくなる姫更。
つ、疲れる……
「それで姫更。このハンカチはどこで手に入れた?」
「そこに落ちてた」
俺と姫更の間にある床を指差す。
「床? なんで、そんな所に――」
――あ、そうか。
売店に行く時に財布を忘れて取りに行った――おそらく、その時にカバンから落ちたんだ。
「お、お前――いや、姫更。何ですぐに俺に知らせなかったんだ?」
「だって、ずっといなかったし」
ソウデシタ……
「それで、オレの手はどうしてくれるんだ?」
師岡のこと、すっかり忘れてた。
「つーかお前、もう手渇いてんじゃねぇか」
「これはしたり!」
こいつ……いっぺん殴り飛ばさなきゃ気が済まない。
「ねぇねぇ。それはそうとオレも神影さんのこと、姫更って呼んで――」
「それはダメ」
「なんで?!」
哀れ師岡。
キンコンカンコーン。
「は~い、授業始めますよ~」
美那子先生がやって来た。
この現国の授業さえ終われば昼休みだ。
そうすれば、俺に平穏な時が戻ってくる。
――そう信じていた時が、俺にもありました。
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