パパ。
「エルマ、ひとまず安心だな」
「あ、お父さん」
世界が急にすべての音を失ったように、先ほどまでの狂乱は幻であったかのように、ホルドの叫びが唐突に終わりを迎える。
輝きが包み込んでいたエルマは今しがた生えて来た腕を不思議そうに見つめていた。
「まったくもう、危ない所だったんだぞ。でも、良くここまでこれたな。吾輩が丁度いて良かった良かった」
ぽんぽんと肩を叩き、アートゥロがこちらへ向き直った。
「いやーごめんね。余りにも驚きすぎてソルトとエウフェーミアを待たせてしまった」
柔らかい笑顔と共に体を重く張り付けにしていたような感覚が抜けていく。
「邪魔されたくなくてね。動きが制限されるのは怖かったかな?」
「それが全力だと言いたいのですか?」
呼吸を整えるエウフェーミアが静かに言う。
「そうだね。やろうと思えばいつでもやれる。それくらいの隠し玉は持っているつもりだよ」
「隠し玉。その兄らしき方も隠し玉だったというわけですか」
「ん? エウフェーミアはエルマに会ったことがなかったかな? おかしいな……」
「仕方がありません。ソルト、敵は二人。余りにも分が悪くなりました。ここは全力で逃げましょう」
左手側の出口をうかがう。わずかにアートゥロたちの方が近い。
何の抵抗も無くすんなりと逃がしてくれるだろうか。
「いやいや、こんな大怪我を直したばかりの子を戦わせるわけがないだろう。そもそも、この子ではソルトの相手をすることはできないだろうしね」
下がっていなさいと短く伝え、アートゥロがこちらに一歩歩み寄った。
「今回は残念だったけど、時間はたっぷりある。二人の説得はまたの機会にするから、今日はもう帰りなよ」
このまま握手でもしてさようなら、そんな気配だ。
「すんなり逃がすと?」
「もちろんだよ。逃げると言わず、足元に気を付けてゆっくり帰ればいいさ。なんなら討議場の中で休んで行っても良いよ」
「どこまでも人を虚仮にするのですね」
エウフェーミアにホルドが集っていく。なにをするつもりなのか、隠す気もないその行動は当然アートゥロにも筒抜けだ。
「違うとも。ただ、もっと経験を積みなさい、そう伝えたいだけだよ」
本当に静かに、屈託なくアートゥロは微笑んだ。
――お父さん、僕はやっと思い出したよ――
そう聞こえた気がした。
なんの予備動作も無く、エルマの右腕がアートゥロを背中から刺し貫く。私やエウフェーミアのいる位置にまで吹いた血が飛び散り、真っ赤に染まった手が肉の塊を握りしめていた。
「
突風が吹き荒れる。
金切声のような音が駆け抜けた。
戦場だと言うのにその凄まじい風圧に思わず目を瞑ってしまう。が、瞬間的にこじ開けた。
痛みに滲む涙の向こうでアートゥロとエルマが二人そろって切り刻まれていった。
いつまでも続くような気がした一瞬も、終わる。
肉片と呼ぶには余りにも細切れのそれが血だまりの中にどちゃりどちゃりと落ち、何もかもが終わりを告げた。
*****
そしていくらかの時間が過ぎていく。
事態の収束は一筋縄ではいかなかった。
”管理の法”を失った共和国内では暴動が発生し、多くの語り手ともっと多くのふるい手がその命を落とすこととなる。激しい戦いがそこかしこで勃発し、そのたびに焼け出された女子供が旧スベリア、デモンサート領に流れ込んでいく。
そのすべてを吸収していったエウフェーミアは並外れた統治力でもって早急に自領を鎮静化。
意図せずとも訓練を終えていた正規軍と連携し共和国内全域を統一。
終始、独裁者になんてなりたくない。そうつぶやき続けた彼女は、多くの民衆に請われる形で総統に就任。表面上ではあったが維持されていた共和制を廃し、エウフェーミアによる独裁体制を確立する。
森林聖共和国は名を”森と人の国”と改名すると、ほとんど同じくして仮初の平穏を得るに至った。
荒れ果てた国内は様々な物資が不足し困窮している。しかし、そこで暮らす人々の笑顔は疲れていても幸せそうだった。
自ら選択し、失敗も成功も噛み締めて暮らす。たったそれだけがみんな楽しいようだった。
「エウフェーミア様、お茶が入りました。少し休憩なさってはいかがですかな?」
「メッサー、仕事が終わらないのよ! 助けて頂戴な」
「一使用人でしかないわたくしめでは詮無き事。ですから、少しばかり休憩してはいかがですかな?」
「もう、意地悪ね」
造りは広いが、余計な物の無い簡素な執務室。数人のふるい手が忙しなく手を動かして書類を片付け、何かの基準で選別された書類の山がエウフェーミアの前に積まれていく。
「ソルト様も、冷めないうちにどうぞ」
「ありがとう」
「滅相もありません」
恭しく一礼し、静かに執務室の壁際に下がったメッサーから目を外す。
彼はエウフェーミアに近しい他の多くの使用人と同様、その生涯の仕事を傍仕えに捧げると誓った一人だった。
ふるい手と語り手という差別を取り払うにはより多くの時間がかかるだろう。国という巨大な単位で一致団結し行動していくにしても、急速に、早急に誰もがうらやむ素晴らしい世界になりはしない。
実現するまでの間、誰かがこの国を導かなければならないのなら、それは他でもないエウフェーミアこそが適任だと誰もが認めている。
そんな女傑が果たす偉業を支える人が必要だ。
垣根を越えて集まった人材はそれはもう膨大だった。この執務室で働く人々はその中でも選りすぐりたちで、エウフェーミアを除きそこに語り手の姿は無い。
生まれ持った力に慢心し、できるすべてを捧げずして生きて来た者。野心に飲まれ染めてはいけない悪事に平然と染まり切った者。何も見ず、聞かず、言わず、我関せずと放任してきた者。
違いはあれど、新しい国の在り方には不要な者たちはエウフェーミアの創設した新法の名の下に処断されていった。
中にはうまく周囲と溶け込み、協同して仕事に従事する語り手たちもいる。
虐げられてきたことを認識したふるい手たちに、語り手への悪感情が無いわけではない。が、エウフェーミアは当然ふるい手側にも公平性を求めた。
語り手憎しと暴れる者は当然粛清し、無意味な分断は起こさないようにと厳命する。
こうして全てが順調とはいかないが、少なくとも無益な争いが長引くことはなかった。
「はぁー。肩凝っちゃった」
「エウフェーミアも人だね」
「なによそれ! わたくしだって立派な人ですとも!」
ぷりぷりと頬を膨らませ執務机に頬杖をついたエウフェーミアが言う。俯いた拍子で金色の髪が顔を覆うように零れ落ちた。
「仕事をしている時のエウフェーミアって、ほら近寄りがたい気配があるというか、すさまじい圧を持ってるからさ」
執務室にいる面々がくすりと笑った。しかしエウフェーミアのひと睨みを受け流すように素早く手元の仕事に戻っていく。
「”小枝のソルト”様に言われたくはありませんわ」
「私はほら、戦うことが仕事だからさ。恐れで制圧できるなら余計な血が流れなくて済むし」
エウフェーミアが施行した新法に則り語り手やふるい手を処断する。
一言でまとめてしまえばその程度の仕事だが、それは途方もないほど膨大な労力が必要になった。
まずなにより悪事に手を染めていた語り手は間違いなく抵抗をしてきた。わざわざ掴まり、法の名の下に平等に刑を執行されるような者は最初から悪事に手を染めたりなどしないのだろうから当然と言えば当然のことだ。
問題は法によって裁く為には拘束し、裁判を受けさせ、適切に処断する必要があるというところだ。
語り手の抵抗を除け、捕獲するというのはとても難しい。いっそ殺してしまう方が簡単なことだった。そこで、法の名の下に、その一点を守るために組織された部隊を私がまとめ、この抵抗する語り手を捕獲する仕事を手伝ったのだ。
内戦状態が沈静化した後、一部暴徒化したふるい手の制圧も行った。
こちらは語り手を拘束するよりも、もっともっと骨が折れた。
語り手として言葉を用いて捕獲することはそれほど難しいことではない。だが、そうした力による一方的な支配はこれまでの権力構造と何も変わらない、と暴徒化したふるい手の行動に余計な油を注ぐ事態となってしまったのだ。
エウフェーミアに賛同していた他の語り手たちも訴えられることで自身の立場を悪くすることを恐れ、手をこまねいてしまった。
そこで私がこの暴徒たちの鎮圧もすることになったのだが、語り手の言葉を用いず剣一本で御していくのはそれはもう時間がかかってしまった。
いかんせん数が多い。こちらの仲間にも多くの犠牲が伴った。
とまあ、なんやかんやと忙しかったのだ。
「でも、本当にお疲れさまでした。先日の男は反政府派の主犯格で間違いないようですし、これで不穏分子は静かになることでしょう」
「ひとまずは安泰だね」
「そうですね。もっと多くのやりたかった新しい試みに挑むゆとりができましたわ」
「そういって貰えると、頑張った甲斐があったよ」
そう。これで本当にひとまずの一区切りだ。
ぺりぺりと剝がれるように、ゆっくりとエウフェーミアの口が開いて行った。
「ソルトたちはこれからどうするのですか? できれば――」
「ひとまず専剣会に顔を見せに行こうかなって」
「そう、ですか。本当に長いこと引き留めてしまっていましたからね」
顔を上げたエウフェーミアが青い瞳を細めながら言った。
「私たちの願いを叶えるためには、エウフェーミアのような考え方の出来る指導者が必要だった。だから私もできる限りのことをしたいと思った。それだけだよ」
髪を撫でつけるように手を動かす。ロサーナから貰った銀の髪留めで引っ掛かり、その縁を撫でる。
「その後は、どうされるのですか?」
「どうしようかな。まだ考えがまとまってないや」
「寂しくなりますね」
「ま、そんな慌てて出ていくってわけじゃないから。私だって、ひとまずはのんびりゆっくりしたいからね」
なにも今生の別れを告げるわけじゃないのに、エウフェーミアは酷く落ち込んだ様子だった。
立ち上がり、俯く彼女の手に触れる。
「ほら、お茶を飲んで。メッサーが淹れてくれたから、とてもおいしいよ」
私が淹れたお茶はまずくは無いが美味しくも無い。そう評したメッサーが淹れたお茶は、同じ茶葉を使っていても明確に”違う”とわかる。
体に染みるとでもいえばいいのだろうか。
視線を合わせたエウフェーミアは「飲みなれた味ですが、美味しいのは間違いないですね」と目元を綻ばせ微笑んだ。
美しく、整った笑顔は少しだけ疲れを滲ませて、それでも力強かった。
【”Sleeping Talk”】
――人の法――
エウフェーミアによって考案された”十の考え”をもとに作成される。語り手とふるい手双方に公平に効力が及ぶこの法は革新的であり、あまりにも先鋭的であった。
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