第5話「好きにして……いいから」
そこには、知らない天井があった。
白一色で、いつも朝一番に目にするハート型のシミがない。
「……ここ、どこだ」
昨日は外泊でもしたんだっけか?
いやいや、普通に原稿してから部屋で寝た……よなぁ?
「さ、桜井ッ!?」
そんなソプラノボイスが聞こえると、視界には芹沢さんの顔。
「目が覚めたのねっ!」
「……そうだけど……ってか近くね?」
まるで顕微鏡でも覗いているかのような距離感だ。
「あっ、ご、ごめんっ」
「……何で芹沢さんが……?」
ゆっくりと上半身を起こすと、見えるのは真っ白なシーツと、芹沢さん。
そして木のラックに小さなテレビ……おまけに色鮮やかな花の活けられた花瓶だ。
「…………病室?」
まさにドラマとかで見るそれである。
「……覚えてないの?」
「何の話だよ」
「アンタはあたしを庇って車に轢かれたのよ?」
「……あ」
言われて、記憶が蘇る。
そうだ、俺は芹沢さんを助けようとして……。
「……生きてんのか、俺」
「あ、あたしにはそう見える」
「ラッキー」
「ら、ラッキー、じゃないわよっ! どんだけ心配したと思ってんのよっ! アンタ、三日間も目を覚まさなかったのよっ!?」
「……み、三日間も?」
「そうよっ!」
「ま、まじか……。ま、まぁ……こうして生きてるし、どこも痛くないぞ?」
「良かった。本当に……良かった」
どんどんとその瞳は輝きを増し。
「……う」
「……う?」
「…………うぅっ」
まるで決壊したダムだった。
崩壊した涙腺から、ボロボロと大粒の涙が流れ出す。
「よ、よがっだぁああっ!」
「に、日本語でおけぇーッ!」
芹沢さんが落ち着くまで、数分掛かりました。
「もう大丈夫?」
「……ごめん、取り乱して」
「いや、いいけど」
ベッドの脇にある丸椅子に座った芹沢さんは、大きく息を吸い込んで、吐き出す。
「おっけー」
「えっとさ、俺、まだ状況を完全に理解してないんだけど。こういう時って患者が目を覚ましたら医者を呼ぶもんだよな?」
「そ、そうかも」
「人生初ナースコールだ」
ベッドの後方から延びるコードの先端、細長いスイッチみたいな物がそうだろう。
俺はそいつに手を伸ばして、止まる。
「……は?」
「どうしたの?」
………………。
「……………………芹沢さん、押す?」
「何であたし?」
「好きそうだから。バス降りる時とか虎視眈々とタイミングを見計らってそう」
「な、何よそれ」
「違うの?」
「……そうだけど」
「じゃ、押していいよ」
「……お、押すなよ。とはよく言われるけど」
「漫才科のノリだ」
「……ほ、本当に押すわよ?」
「どーぞどーぞ」
芹沢さんは、遠慮がちにスイッチを押した。
これで、すぐに看護師さんが駆けつけてくれるだろう。
「あははは」
「どうしたの、急に」
「何でもないよ。ただ、笑えてさ」
「?」
「あはは、は」
「……変なの」
心の中では少しも笑っていなかった。
ナースコールは押さなかったのではない。
……押せなかったんだ。
そんなはずはない。
そう思って、シーツの中で右手に動けと信号を送る。
俺の意志に従ってくれたのは……小指だけ。
親指から薬指までが……完全に機能を停止している?
「桜井さん! どうかしましたか!」
「あ、起きました」
「ほへぇ!?」
看護師の奇声など、気にしている余裕はなかった。
医療ドラマでしかお目にかかる機会のない、大きな空洞のある医療機器(名前なんて勿論知らない)で検査を受けた俺は、事故の連絡を受けて急遽海外から帰国した母さんと二人で担当の先生と話した。
専門用語の混じった内容は、一介の高校生である俺には難しかったけど。
大筋は理解できた、と思う。
要は、事故の衝撃で左脳が大きなダメージを受けてしまい、右手に障害が出ている状態、との事だ。右手の、それも指四本だけが動かない、という症状は珍しいようだけど、前例がない事ではないらしい。
今後、さらに詳しい検査をしてみないと断言はできないらしいけど、神経ってのは一度火を通した卵が元の状態に戻らないように、復元はしないものらしく。
漫画は勿論、文字すら書くのは難しいだろう、との診断だ。
……俺は、静まり返った病室の窓から、綺麗な満月を見上げていた。
コンコン、と控えめなドアを叩く音。看護師さんの巡回だろうか。
「はい?」
ゆっくりとスライドしたドアから顔を覗かせたのは芹沢さんだ。
「芹沢さん?」
「入ってもいい?」
「別にいいけど」
後ろ手でドアを閉めると、何も言わずに丸椅子へ落ち着く。
「どうしたの? ってか、面会時間って知ってる?」
神妙な面持ちの芹沢さんは、
「聞いたわよ、アンタの右手の事」
「スルーするーなよ」
「……そういうの、今はなし」
「…………おう」
僅かな沈黙を破ったのは来訪者の方だった。
「あたし……どう謝ったらいいのか」
「どうして芹沢さんが謝るの?」
「だって、あたしがもっと注意深くしていれば……アンタを無理に誘ったりしなければ……」
言いたい事はわかったが、それは完全に的外れだよ、芹沢さん。
「悪いのは居眠り運転をしていたドライバーでしょ」
「それはそうだけど、あたしにも責任はあると思う」
「いや、ないでしょ。俺は自分の意志で君を助けたんだ」
「……意外と大人なのね」
「意外と、は余計だ」
笑い掛けても、芹沢さんは笑顔を返してくれなかった。
「……右手、見せてもらってもいい?」
「いいけど」
右手を差し出すと、芹沢さんは両手でそれを包み込む。
ひんやりとした感覚を脳に伝えてくれるのは勿論小指だけだ。
「本当に、動かないの?」
「動かないねぇ」
「少しも?」
「うん。さっきまで色々試したんだけど、全然反応なし」
「指って、漫画家の命よね」
「漫画家志望、な」
「……どうして?」
「え?」
「どうして、そんなに平然としていられるの? もう、漫画が描けないのよ?」
簡単だよ、そんなの。
ただ、実感が湧かないだけだ。
「先生にはもう字も書けないって言われたけど、さ? 一晩寝て、起きたら普通に動くんじゃないのか、なんて思う訳」
「そ、そんな事……」
「俺の立場になって考えてみてよ。いきなり「君の指はもう動きません」とか言われて「はい、そうですか」ってなる?」
「それは、ならないかもしれないけど」
「新しい治療法とか見つかるかもだし?」
楽観的だと思われるかもしれないが、紛れもない本心だ。
割とメンタルは強い方なのかもしれない。
「だから、本当に芹沢さんが気に病む必要はないから」
「……それは、多分……無理かも」
「何でだよ」
「逆に、あたしの立場になって考えてみて」
「うん?」
「アンタは強引にあたしを誘って……あたしはアンタを庇って声を失った。もう、一生言葉を話す事も、漫才をする事もできない。あたしの夢を奪ってしまった」
「……」
「あたしに「気にするな」って言われて「はい、そうですか」ってなる? 少しも責任を感じたりしない?」
「…………」
メンタルの強さではなく、よっぽどの「図太さ」がないと割り切れないだろう。
芹沢さんの立場が痛い程よく分かって……胸が苦しい。
「……あたし、どうしたらいいのかな? なにができるかな?」
答える事なんて当然できなかった。
だって、どうする事もできないのだから。
芹沢さんが何をしても、何を願おうと、俺の指が動く事はない。
俺の夢は戻ってこないのだ。
「「……」」
お互いに何も口にしなくなり、沈黙が訪れた。
遠くでバイクの音がして、それは次第に聞こえなくなるけど。
それでも会話は生まれない。
「……桜井」
月明かりに照らされた少女の頬を、一筋の雫が伝う。
少女はそれを拭う事すらせず、ゆっくりと立ち上がった。
「芹沢さん?」
「……いっぱい考えたけど、これしかなかった」
一体、何の話を? そんな言葉は喉で止まった。
芹沢さんはブレザーを脱ぐと簡単にそれをたたみ、座っていた丸椅子へ。
そのままブラウスのボタンに手を掛けた。
「おい?」
「……わ、わかるでしょ」
露になっていくのは真っ白な肌と、淡い水色の、随所にフリルのあしらわれた可愛らしいデザインの下着だ。
「な、なにして……」
口ではそう言いながらも、俺は釘付けになっていた。
白くて、柔らかそうで、それでいて張りもありそうな、少女の大きな胸に。
羞恥心で耳まで染めた少女は、
「……好きにして、いいから」
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