第13話 故郷の人々 4

 ジャイばあさんの言葉も終わらないうちに、ジャジャジャジャーン! という派手な銅鑼や太鼓の音が空間を満たした。

シャールーンの登場と共に、それまで会場を満たしていた喧噪はぴたりと止んだ。シャールーンは竪琴を手に、一人でステージの中央に進んだ。そして竪琴をかき鳴らしつつ、ゆっくりとステージの中央を旋回し始めた。その素足で床を踏みしめれば、足首に付けた鈴がシャン、シャン、と豪快な音を立てる。大きな体の旋回は、小屋の隅々までの空気を支配した。やがて、シャールーンが竪琴を床に置くと、太鼓と銅鑼の音が高らかに鳴り響いた。次の瞬間、シャールーンは高く飛び上がったかと思うと低く地面に伏せ、驚く程柔らかく手首を回しつつ腕をゆっくりとくねらせた。しばらくそうした後、いきなり立ち上がり、今度は激しく小刻みに腰と両脚を動かして竪琴の周りでステップを踏み始めた。髪を振り乱して踊る様は、動く大木のようでもあり、炎のようでもあり、嵐のようでもあった。彼女の動きの一つ一つが森羅万象を表しているかのようだ。じっと見ているマルの胸の中で、めくるめく物語のページが開かれていく。

(ああ、これは伝説の舞姫エイ・ワン『竪琴と剣の舞』じゃないか!)

 その昔、女武将が舞姫に変装して敵陣に乗り込み、素晴らしい舞いと美貌で敵の将軍の目をくらまし、最後に竪琴の弦に自分の頭に挿したかんざしをつがえて敵の将軍を射抜いて倒すという物語の中の伝説の踊り。まさか、それを実際に目にする事が出来るとは! 何と力強くダイナミックなんだ! 彼女の肉体が波打つ度に、ここにいる全ての観客の魂が彼女の手に絡め取られ、引きずり込まれて行く。

 踊りは終わりに近づくに従ってますますテンポを増した。今や一つの渦となって周りの全てを巻き込むかのように旋回するシャールーン。マルはもはや、口にたまった唾を飲みこむ事すら出来なかった。目には彼女の踊り、そして耳には最高潮に達した太鼓と銅鑼の音。マルの身体ははちきれんばかりだった。

やがて、最後の跳躍を終えたシャールーンが地べたに跪くと同時に、太鼓と銅鑼の音はピタリと止んだ。突然訪れた静寂。数秒の後に、空気が弾けたかのように一斉に拍手が起こった。マルの耳元にジャイばあさんが口を寄せ、熱風を吹き込むように囁いた。

「どうだい? あの子の踊りは。あたしが振り付けしたんだ。でもあんな風にあれを踊れる子は他にどこを探してもいない」

「すごい……」

 マルにはそれ以上何も言えなかった。普段は、何か感動するような事に出くわすと、すぐに言葉にして詩の手帳に書き留める。しかしその言葉も今は容易に出て来そうになかった。

「マレン……彼女の名前は何だ」

 突然、隣でシンが呟く。見ると、シンが驚く程真剣な様子でシャールーンを見詰めていた。彼の付けた猿面に真剣さが滲み出ている。マルは驚いた。彼の様子は普段の女性を目にした時のシンの様子とはまるで違っていた。

「そうなんだ……やっぱりそうなのね。あなたみたいな素敵な殿方は、みんなあたしよりあの子の事が好きになるの」

 シンの隣でミヌーが寂しそうに言った。

「そういう事じゃないよ。君はとても素敵だしかわいいよ」

 シンはミヌーの小さな手に自分の手を被せて撫でながら言った。

「ただ、あのダンサーは俺の知ってる人にとてもよく似てる。だからどうしても気になったんだ。ねえ、素敵なおばあさん、あの踊り子とちょっと話させてくれないか?」

「素敵なおばあさん、なんてお世辞はあたしにゃ効かないよ。でもねえ、マルの友達なら聞いてやらなきゃなるまい。マル、この人があの子に抱きついたりしないように見張っといておくれよ。あの子はそういう事をされるのが大嫌いだからね」

 マルとシンはジャイばあさんの後について客席を出て、小屋の裏手に回った。扉を開けて中に入ると、シャールーンは衣装を脱ぎかけ、片方の肩を剥きだしにして突っ立ったまま、柄杓の水をゴクゴク飲んでいた。彼女の肩には汗の玉がびっしり乗っていて、次から次へと褐色の肌を流れる。それは彼女がたった今いかに過酷な踊りをしてみせたかを物語っていた。

「シャールーンや」

 踊り子は振り返った。

「よくやった。お前は立派に踊ったよ。マルも驚いてる所だろうよ」

 ジャイばあさんは、シャールーンを労うように、その豊満な肩に手を載せた。シャールーンはそんなジャイばあさんを見下ろしながら、ゆったりと微笑んでいる。マルはそれを見ながら、自分はどれだけこのジャイばあさんを誤解していたことか、と思った。かつてマルは、この老婆の事をいつもシャールーンに罵声を浴びせかけていじめる意地悪ばばあだとばかり思っていたのだ。

(大人になって初めて分かる事があるんだな……)

 やがて、シャールーンは小柄な老婆からマルと猿面を付けた若者の方に視線を向けた。

「ああ、マルとそのお友達が、あんたと話があるんだとよ。それじゃあ、あたしがこれ以上ここにいても邪魔だからおいとまするよ。あとは若い者だけで話するがいいさ」

 ジャイばあさんが部屋から去った後、マルはシャールーンの瞳を見詰めながら何も言えなかった。部屋の中を沈黙が覆っていた。やがてマルは思った。

(なんでシンまで黙ってんの? いつもなら、女の人を見たら大騒ぎするくせに?)

 マルがそっと隣のシンの方を見上げた。するとその時、シンは、大木のようにその場に立っているシャールーンの傍に寄り、真剣な調子で尋ねた。

「なあ、教えてくれ。君の名は何と言う?」

 シャールーンは黙ったまま相手の顔を見返していた。アジュ語であるため、相手の言葉が分からないのだ。

「マレン、大事な事なんだ。俺の言葉をアマン語にして彼女に伝えてくれ」

「彼女はカサン語が分かるよ」

「そうか」

 シンは顔に手を当てたかと思うとサッと猿の面を外した。マルが今まで見た事ないようなシンの真剣な表情が現れた。

「俺はアジェンナの王子だ」

 シャールーンは表情一つ変えることなく相手の顔を見詰めている。

「俺はかつて、父と継母に命を奪われそうになった。そんな中、一人の勇敢な女性が幼い俺を助けてくれた。俺を抱き抱えて城から連れ出し深い森へ俺を逃がしてくれた。『私があなたをお守りします』と言って俺を抱きかかえた、あの逞しい腕の感触も顔も忘れる事が出来ない。名前はエフティーヌカ。俺にとっての生涯の英雄だ。それなのに、あの方は俺を助けたために……」

「母はそのために捕らえられて処刑されました」

 マルはシャールーンの言葉を耳にしたとたん、アッと叫びそうになった。

「……信じられない……神の導きとしか思えない……俺がマレンと友達になったのも、この村をマレンと共に訪れたのも、君に会えたのも……。俺はエフティーヌカに出来なかった恩返しを君に対してする義務がある。神にそう命じられてるんだ。だから、俺は君のためなら命も捧げる」

 マルはこの時、彼の目から涙が浮き上がり、キラキラ光りながら黒い肌を流れて行くのを目にした。マルが初めて目にした彼の涙だった。

「私があなたをお守りします。母と同じように」

 シャールーンが言った。

「いいや、それはダメだ! 俺があなたを守る! この命にかけても!」

 王子と、その忠臣だった武将の娘が今目の前で誓いの言葉を交わしている。

(英雄の物語の一場面を見てるみたい……)

 マルは茫然としたまま二人の様子を見詰めていた。しかも信じられない事に、それは片田舎の見世物小屋の楽屋で行われているのだ。


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