第6章 陸本の薬瓶
ドリカと別れたリシャルトは六本の薬瓶に水を満たすと、ヘルトラウダが割り出した改竄跡へと向かっていた。道を走るリシャルトの鞄は久しぶりに荷物で満たされている。薬瓶の効能は一回使いきりで、あとはただの薬瓶になるそうだ。水を満たすと薬瓶の中身はすべて怪しげな赤紫色に染まった。リシャルトがなぜ走っているかと言うと、触媒には使えないと思っていた肉食植物の種に、運よく生命が残っていたからである。ありがたく触媒に使い、身体強化と魔力増強の魔法をかけて目的地へと急いでいた。本来であれば洞窟が続いているはずなのだが、途中でまたがらりと土の種類が変わり、今は無機質な石畳の道をひたすら走っている。ここにもまた、等間隔にランタンが掲げられており、薄暗くはあるものの走るのになんら問題はない。
「もうすぐだ」
ヘルトラウダがリシャルトの隣で栞を振り、右の角を曲がるように指示する。
「う……わ……」
広間へと出たリシャルトはその有様を見て驚いた。本のページを開けば、インクなどで無理矢理上書きされたり消されていたりするものが、魔導書内で改竄されている箇所を直に見ると、痛々しさが増して見えた。改竄された跡はまるで、ずたずたに刻まれた傷口のように、広間の壁が裂けている。そこから魔導書を構成していた魔術式やもともとの文章が溶けたように垂れ下がり、黒いインクが流れ出していた。魔術式は読み取れたのだが、元の文章は言語が読み取れない。リシャルトの国で使われているものではない言語であった。その言語に靄のような引っ掛かりを覚えつつも、リシャルトはインクの水溜りを歩んでいく。
「悔しいけれど、今すぐ修復に取り掛かれそうなのは魔術式だけだね……」
眉間に皺を寄せ、口元に指先を添えるリシャルト。青白い光に照らされ、傷口のような裂け目からはインクがどろどろと流れ出している。再度魔術式を読み直すと、リシャルトは知識の海にある特殊魔導書の修復技法を掬い出す。
リシャルトは深呼吸をひとつ、それから深く息を吸い、石畳のインクを触媒に修復魔法のルーンを唱えた。足元に溜まるインクが宙に浮かび、徐々に魔術式のルーンとなって裂け目へと吸い込まれていく。種で強化した分の魔力と、自身の魔力を少し足してやれば、この箇所の魔術式修復は完了できる。そのあと、改竄者がここへ来てくれればいいのだが。修復後の流れを考えながら、リシャルトは目の前の魔術式修復に集中した。
魔術式修復には二時間ほどかかった。途中リシャルトはコツを掴んだのか、ルーン詠唱の速度を速め、予想より早く修復を完了することが出来た。
「僕、修復師になれるかも……! 国家試験受けてみようかなぁ……!」
魔術式の修復跡の出来栄えを見て、リシャルトは目を輝かせた。裂け目から漏れ出ていたインクは半減し、残るは元の文章のみである。
「確かにすごい腕だ。少し疑ってしまったことを謝っておくよ」
ヘルトラウダが栞を振った。
「やっぱり信頼されてなかったか……」
「私の本としての体裁がかかっているからね」
悲しそうに笑うリシャルトにヘルトラウダが当然と言ったようにさらに栞を振る。
「うーん、しかし問題は本文の方だ」
リシャルトが顎に指先を添えて唸った。
引っ掛かりのある言語だが、果たしてどこで見たものだったか。
——逡巡するリシャルトの背に、黒い矢が飛んできたのは一瞬のことだった。
ヘルトラウダを抱えてリシャルトが左に飛び矢を避けたのも、また一瞬のことだった。リシャルトは袋にヘルトラウダをしまうと、壁を蹴って追撃してくる黒い矢を素早く避けた。
広間の入口に、改竄者が仁王立ちしていた。
束の間、改竄者が地面を蹴ってリシャルトに向かってくる。弓を使わずに、黒い矢が三本放たれた。リシャルトも地を蹴り、黒い矢を避ける。そして袋から、赤紫色の液体が入った薬瓶を一本、取り出した。
(一か八か……)
さらに襲い来る黒い矢を避け、リシャルトは広間を駆けながら薬瓶のコルクを開けた。場に不似合いなポンと言う小気味良い音が鳴り、リシャルトは薬瓶の中身を一気に飲み干した。
容赦なく黒い矢が、数十本、一気にリシャルトに向けて放たれる。裂け目のない壁の方へ逃げていたリシャルトに、黒い矢の猛攻が降り注いだ。壁に追突した黒い矢によって、石片が飛び散り、砂埃が広間を満たす。外套の裾が飛ばされないよう引っ張るように抑えながら、改竄者が黒い矢を構えて崩れた石壁へと近づいた。
「うぉおおぉおおお‼」
リシャルトの咆哮が、改竄者の右耳の鼓膜を破らん勢いで飛び込んできた。
そして
「ッ——はっ」
短刀が改竄者の右肩を掠めた。さらにもう一斬撃、二連撃。改竄者は体勢を崩しながらも、リシャルトの振るう短刀の連撃を既のところで避ける。
三連撃目、当てようと思えばリシャルトには当てられた。短刀を両手持ちにし、思い切り振り被るその一撃は、あえてこれ以上改竄者を傷付けないよう、外套の裾を切り裂いただけで終わった。その隙を見逃さず、改竄者は後ろに飛びながら黒い矢を数本、こちらに放つが、そこに既にリシャルトの姿はなかった。着地した改竄者は辺りを伺いながら右肩を抑える。砂埃が鬱陶しい。右肩の傷を確認し、それほど深いものではないと判断する。今は回復するよりもリシャルトを追い詰めるべきか。
——否。
砂埃の中、改竄者はリシャルトの気配が消えていることに気付く。
改竄者は深く息をつくと、彼を追うため索敵魔術のルーンを唱えた。
空間転移魔法で戦線を一旦離脱したリシャルトは、民家のベッドに腰掛け、鈍く光る短刀の刃を見つめていた。少量だが、改竄者の血が付いている。リシャルトは外套の裾でそれを拭くと、短刀を鞘に納め、袋の中へとしまった。短刀の柄のぐらつきは、石畳の通路にあったランタンの金具を用いて修復魔法で修理と強化を施していた。
深く大きなため息をつくと、リシャルトはそのままベッドへと倒れこんだ。部屋に灯りはついておらず、カーテンも閉め切られていて薄暗い。朝焼け前のような薄暗さだった。
薬瓶の中身は魔力増強の効果を持つ薬になっていた。ぎりぎりのところでリシャルトは魔力を身体強化に注ぎ込み、爆発的な膂力を得た脚力で改竄者の懐に突っ込んだ。威嚇程度のつもりだったが、改竄者はこちらが深手を負ったと油断していたのか、傷を負わせることになってしまった。リシャルトとしては苦い結果になったが、あれほどまでに高い殺意を持つ相手ならば、一度痛い目に遭って大人しくなってもらわなければ話し合うことは難しいかもしれない。
「すこし眠ったらどうだろう」
いつの間にか袋から出ていたヘルトラウダが頭上をゆったりと旋回しながら言った。
「いや、薬の効果が持続している間に、いくつか修復に回りたい……」
眼鏡を外して額に手を当てるリシャルト。
「それに、改竄者との戦闘も……、あと何度かこうして戦えば、相手の体力が落ちていくだろうから……」
眉間を揉みながらリシャルトは続けた。こちらも殺されてはいるが、人を傷付けるのは気分の良いものではない。絞殺された時とはまた別の、いやな汗をかいている。
「……次の改竄跡の目星はついている」
これ以上言っても聞かないだろうと、ヘルトラウダはぱらぱらとページを捲った。
「にしても無茶をする。さっきの空間転移魔法でおそらく魔力増強の薬効をおよそ三割は使っているよ」
ヘルトラウダは栞を揺らした。
「はは……。初めて使ったにしては、うまいものでしょ?」
リシャルトが笑う。
本来、空間転移魔法は禁忌魔法とされている。周辺の時空を歪めて発動する魔法であることと、ルーンはあるが、詳細な原理が定かではないためである。改竄者の移動速度や神出鬼没な現れ方から、リシャルトは改竄者が空間転移魔法を使って移動しているとみて、ならばこちらが使っても問題はないはずと踏んだのだ。
「大したものだ」
ヘルトラウダはそう言うが、声音は相変わらず穏やかで無機質だった。
「さぁ……、次に行こう」
リシャルトはゆっくりとベッドから起き上がった。物で雑然とした部屋の扉を開けると、真っ黒な岩場と灰色の空が広がっていた。風が強く、冬のように冷たい。
「ここは、生き物はおろか、植物の生息すらない▼山だ。ここから五キロほど歩けば、改竄跡に着く」
ヘルトラウダが言い終えた後、リシャルトは一歩、扉の外へと踏み出した。ざり、と地面が鳴る。土ではなく砕けた鋭い石片が、地面を濃い灰色で埋め尽くしていた。吐く息は白く、布の隙間を針で刺すように冷たい風が吹き付ける。
「走ろう」
身体強化魔法の効果はまだ継続している。リシャルトはヘルトラウダを袋にしまうと、岩山の斜面を駆けだした。
魔術式の修復を終えて一息つく間もなく、リシャルトと改竄者は再び、身体強化魔法による肉弾戦を繰り広げていた。短刀は改竄者によって既に手刀で砕かれてしまい、今度はリシャルトが苦戦を強いられていた。
(強い……)
リシャルトは岩肌を転がりながら改竄者の放つ黒い矢を回避する。すかさずこちらも身体強化を施した膂力で、拾った小石を高速で投げ放ち応戦するが、あっさりと避けられ距離を詰められた。これは避け切れないだろう、とリシャルトは己の身体強化魔法をさらに上書きする。全身に、鋭い刃も通らないほどに強固にルーンを唱えた。改竄者は矢を放ちながら手刀を構えて切りかかる。身体強化魔法に加え、腕に刃物の特性を付与する高等魔法だった。
「はっ——‼」
リシャルトは改竄者の放つ斬撃を左腕で打ち払う。隙を見せずにもう一振り、改竄者の手刀がリシャルトの右脇腹へと叩き込まれるが、素早く左手で右へと受け流す。そして改竄者の足元を払うように、リシャルトは腰を落とし、左足で蹴りを繰り出した。改竄者は軽々と跳躍し、距離を取って矢を放つ。リシャルトはそれを右手で叩き落とすと、魔力に任せて属性魔法で風を巻き起こした。辺りを灰色の砂埃が舞うが、改竄者は意にも介さず矢を放ち続けた。
「……」
改竄者はわずかに肩を揺らす。
リシャルトは再び、空間転移魔法を使ってその場を逃れていた。
空間転移魔法で退避したリシャルトの息は少し上がっていた。薬効で増幅された魔力の残りは、あと半分と言ったところだ。再びヘルトラウダの指示したとおりに石窟を駆け抜けていると、今度はリシャルトが改竄跡に辿り着く前に行く手を阻まれた。
身体強化魔法による殴り合いと、属性魔法による攻撃も合わさり、石窟内には轟音が響き渡る。
刃物の特性を付与した手刀で、改竄者はリシャルトの足や腕へ斬撃を休みなく叩き込む。合間に火炎魔法の火球が撃ち込まれ、薄暗い石窟内が赤く照らされる。相手はこちらの手足の動きを封じたいのだろう。リシャルトもそれに応戦し、蹴りや拳を振るい、風や水といった属性魔法で相手の魔法攻撃を相殺していく。
身体強化魔法と特性付与魔法を維持した上での、属性魔法を用いた戦いは、リシャルトにとって初めての経験でもあり、そして彼の知的好奇心を強く刺激し狂喜させる体験だった。
リシャルトは袋から鏃の錆びた三本の矢を取り出し、改竄者の猛攻を回避しながら特性付与魔法のルーンを唱える。気を抜けばすぐそこに待っているのは死であるが、リシャルトは自身の技量を試さずにはいられなかった。薬瓶の薬効がなければ、こんな無茶な戦い方はそうそうできない。
特性を付与した矢を宙に解き放つ。すぐに三本の矢は標的へと飛んでいくが、改竄者は手刀で二本の矢を叩き落とし、残りの一本を避けてリシャルトへと距離を詰めた。リシャルトは改竄者の手刀を叩き落とすように拳を繰り出す。なるべく改竄者をその場へ引き止めるように。
リシャルトが矢に付与した属性は鋼鉄化と追尾だった。
「——!」
改竄者を盾にするかのように身を縮めたリシャルトを見て、改竄者は瞬時に背後から飛んでくる三本の矢を叩き落とした。その隙を、リシャルトは逃さなかった。
改竄者の脇腹に、リシャルトは鉄の特性を付与した拳で、最大威力の掌底を放った。
「かっ……は」
改竄者が息を詰まらせる。が、属性魔法で風を巻き起こすと、リシャルトを思い切り弾き飛ばした。
「うっ——ッ」
既のところで背中の身体強化を高め、衝撃を軽減させたが、石窟の壁に激しく叩きつけられたリシャルトは小さく呻く。
(ここで死ぬわけにはいかない——)
リシャルトは体勢を整えながら、空間転移魔法のルーンを唱えた。少し離れたところで、追尾するリシャルトの矢をよろめきながら回避する改竄者の姿を、霞む視界が捉える。
リシャルトの体が空間転移魔法の淡い燐光に包まれたそのときだった。
「ぐぁッ⁉」
リシャルトの右胸を、改竄者の黒い矢が貫いた。
「リシャルト——」
袋の中からヘルトラウダが呼びかける。
リシャルトの体は光の粒になり、ぱらぱらと散っていった。
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