第82話 神聖なクマちゃん

 甲板の上に落とされた〝邪悪なブローチ〟の側で片膝を突き、それを観察していたウィルが呟く。


「――本当に邪悪な物が出てきてしまったようだね」


 彼が目の前のそれの周りに結界を張るべきか考えていると、幼く愛らしい声が、


「――クマちゃん」


と言った。

 それは『――クマちゃん、任せる』と聞こえたが、妙にもったいぶった言い方だ。

 まさか、クマちゃんに任せなさいという意味だろうか。


「え、クマちゃんそれ触んないほうがいいと思うんだけど」


 変な物に自分から近付きたくないリオは、ゴリラちゃんを抱え席に座ったまま、ルークの腕の中のクマちゃんを見る。

 リオに声を掛けられたヘルメットクマちゃんは愛らしい瞳をキリリとさせ、スッと自身の顔の前、もこもこの口元の横あたりに手を上げた。

 ――ピンク色のぷっくりとした可愛すぎる肉球が、良く見える。

 それを見たリオが呟く。


「肉球……」


 まさか、可愛い肉球を見せつけて、言う事を聞かせようとしているのだろうか。

 ――いや、クマちゃんはそんな、計算高い悪い子ではない。

 しかし、真っ白なもこもこの毛で覆われた先の丸い、何も出来そうにない猫のそれのような、あの可愛い手の中の、更に可愛らしいピンク色の肉球を見せられてしまうと――――何を考えていたのか忘れてしまう。

 ――違う、肉球の話ではない。

 危険な物に触ってはいけないという話だ。


「……いや、まじでアレ良くないやつだと思う。だから持ち主が――」

 

 リオはまたうっかり何かを言いそうになったが、殺気が飛んでくるのと言葉を吞み込んだのはほぼ同時だった。

 危ない。子供に聞かせる話ではなかった。

 しかしクマちゃんは再び幼く愛らしい声でハッキリと、


「――クマちゃん――」


と言った。

 先程よりも更にもったいぶった言い方だ。『――クマちゃん、出来る――』と言ったような気がする。


 なんとなく、もこもこがもこもこの胸に手を当て、そっと『――クマちゃん――』――クマちゃんなら解決できます――と呟いている映像が頭に浮かんだ。


 まさか、クマちゃんが自分にそれを見せたのだろうか。

 リオは驚き、隣に座るクライヴを見た。


 ――何故か苦しそうに胸元を押さえている。彼は大丈夫なのだろうか。


 クライヴが同じものを見たのか、全く分からなかった。

 リオはもう一度クマちゃんを見つめる。

 ヘルメットクマちゃんは先程まで顔の前に上げていた手を、スッと下ろす。


 そして、もこもこの両手をもこもこの胸の前――よだれかけの前――で、そっと、交差させた。


 ――教会の人間がああいう恰好をしているのを見たことがある、ような気がする。

 安心して下さい、という事だろうか。


「クマにも何か考えがあるのだろう。やらせてやればいい。――危険があれば私が止める」


 低音の格好いい、不思議と頭に響く声で、あまり格好良くないぬいぐるみのゴリラちゃんが、格好いい事を言う。


 長い脚を組んで座り、可愛いもこもこの頬を擽っていたルークが、無言でクマちゃんをブローチから少し離れた場所に、ポフ、と降ろす。

 丁度ブローチを挟み、甲板に片膝を突いているウィルと向かい合わせの場所だ。

 過保護なルークは、本当はクマちゃんを変な物に近付けたくないと思っている。

 しかし、やる気に満ちている時のもこもこを止めると、イヤイヤをする子供と同じくらい、床の上で激しくイヤイヤをするクマちゃんを見ることになってしまう。

 酒場の冒険者が相手なら気絶させれば済むが、愛しのクマちゃんにそんなことは出来ない。


 クマちゃんの、胸元で両手を交差した〈――ご安心ください――〉のポーズを目撃した直後から、更に苦しそうなクライヴは、自身の服の胸元を黒い革の手袋に包まれた手で、ギュッと強く握りしめたまま、美しい顔を歪めもこもこを見つめている。


「まじで不安なんだけど……」


 リオが心配そうに呟く。

 クマちゃんが変なことを仕出かさないかという心配と、可愛いクマちゃんが危険な目に合ったらどうしようという心配だ。

 胸元で手を交差させたままブローチの前に立っていたもこもこが、片方の手を、スッとルークの方へ差し出しながら、幼く愛らしい声で、


「――クマちゃん――」


と静かに呟く。

『――クマちゃん、杖――』と聞こえるが、本人、もとい、本クマちゃんは仰々しく『――クマちゃんの杖をこちらへ――』と言っているつもりなのだろう。

 ルークがリュックから再び杖を取り出し、ヘルメットとよだれかけを装備したクマちゃんに渡す。

 ――もこもこは妙にゆっくりと動き、神聖な雰囲気を醸し出している。


 クマちゃんが、受け取った杖の細い方を持つ。クマの顔が付いている、持ち手の方だ。

 杖の先端にはクマちゃんの自宅らしき模型が付いている。

 両手で杖の端を握ったクマちゃんが、先端の模型をブローチの横へ、スッと近づけた。


 クマちゃんが、一度近づけた模型をブローチから少し離す。

 そしてもう一度何かを確かめるように、ブローチに模型をスッと近づける。

 クマちゃんが深く頷く。

 ――何かが分かったようだ。


 呼吸を整え、杖の端を両手で握り直すクマちゃん。


 クマちゃんが体を捻り、模型をブローチから大きく離した。


 そして捻った体を戻すように勢いよく杖を振り下ろす。


 ぶつかる模型とブローチ。


 ブローチが宙を舞う。


 金髪をかすめたブローチ。


「危ないんだけど!」


 ブローチはそのまま船外へ――。


 湖から発見されたブローチが湖へ、ポチャ、と静かに戻る。


 ――ナイスショット――。


 こうして危険なブローチは、誰一人危険な目に遭うことなく、ナイスショットで安全に片付けられた。

 ――ルークに杖を渡したクマちゃんが、再び両手を胸元で交差させている。


「いま頭かすめたんだけど!」


 クマちゃんのナイスショットで危険なブローチが当たりそうになったリオが叫ぶ。


「当たってねぇだろ」


 ルークが低く色気のある声で返す。

 無表情で声に抑揚もないため誰も気付かないが、彼の感情表現が豊かなら鼻で笑っているであろう言い方だ。


「いやそれよりブローチどっかいったんだけど」


 リオは無神経な男ルークに苦情を言うのを諦め、本題に戻った。

 あれは調べるために湖から引き揚げたのではないのか。


「うーん。でも君が先程言ったように、あれには触らない方がいいだろうね」


 片膝を突いていた場所から立ち上がり、シャラ、と装飾品を鳴らし元の席へ戻ったウィルが、透き通った声で静かに返す。

 美しく派手な外見からは想像できないほど大雑把なところがあるウィルだが、あのブローチには触れない方がいいと感じた。

 洞窟で発見した文様と関係があるアイテムだったとしても、今の自分達があれを調べるには知識が足りない。

 うっかり酒場へ持って帰り、間違って誰かがそれを身につけた時、絶対に良くないことが起きるだろう。

 

「クマが杖であれを殴った時、あの物体の周りには結界のような物が出来ていた。他の人間がこの湖からあれを持ち出すことはないだろう」


 リオがもこもこのナイスショットで飛んできたブローチを避けた時に腕に力を入れたせいで、胴体がキュッとなってしまったゴリラちゃんが、目の前で話し合う彼らに告げる。

 危険なブローチは一応封印されたということらしい。


 胸元で手を交差させているクマちゃんが、幼く愛らしい声で、


「――クマちゃん――」


と言った。

 聞こえた言葉は『――クマちゃん、おかたづけ――』だが、なんとなく神聖な雰囲気で『――危険は去りました――』と告げているような気がする。

 ――急に司祭か何かの気持ちになったのだろうか。

 

「……何かクマちゃんが格好つけてる気がするんだけど」 


 胸元で手を交差させているクマちゃんを、胡散臭いものを見るような目で見たリオが呟く。

 はっきりと分かるわけではないが、なんとなく、そう感じるのだ。

 

「…………」


 ルークは返事をせず、神聖なポーズで佇むクマちゃんへ手を伸ばし、可愛いもこもこの顔が良く見えるように抱き上げる。

 そしてもこもこの頬を長い指で擽りながら「リオ」と声を掛けた。


 一度視線を湖岸へやったということは、船を戻せということだろう。


「え、何。戻りたいとか言えばいいってこと?――うわマジで動き出したし」


 リオが取り合えず言ってみたその言葉に反応するように、船は移動を始める。


「ねぇリーダー。アレは他にもありそうだけれど……」


 シャラ、と腕の装飾品を鳴らし、風に吹かれた青い髪を押さえたウィルが、視線をスッとルークへ向ける。

 先程の危険なブローチは、それほど凝ったつくりではなかった。

 量産されていた可能性もある。

 過去誰かが行方不明になったという話は聞いていないが、一応マスターにも伝えておいたほうがいいだろう。


「ああ」


 腕の中の可愛いもこもこを長い指であやしながら、ルークが雑に返す。

 返事は雑だが、彼が『気にするほどのことじゃねぇだろ』と言わないのであれば、一応真面目に聞いているということだ。

 

「一回酒場戻る? 結構荷物あるし」


 リオは自分達の仲間であるもこもこが公園でやりたい放題したことを忘れたように、このまま酒場へ戻ることを提案した。

 ――無意識に逃げようとしているのかもしれない。


「――それがいいだろう」


 胸の苦しみからやや解放されたクライヴが、いつもの冷たく美しい声でリオに答えた。 

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