第49話 〝クマちゃん〟も
悲しき地上へ降ろされてしまったクマちゃんは、ハッと口元に肉球を当てた。
『開けてください』をしなくても開いているのだ。
うむ。とても良い感じである。
クマちゃんはしなやかな身のこなしでス――、と花道を進んだ。
◇
マスターの部屋の扉が、片方しかない。
開いたままのそこから見えるのは、仕事部屋の奥にある大きな机、積まれた書類、椅子に座り仕事をするマスター。
「やべぇマスター丸出しじゃん!」
暴言を吐くリオ。
「ぶっ殺すぞクソガキ」
静かに切れるマスター。
仕事で大変な彼にこんなことを言うのは、この外見だけチャラい金髪くらいだ。
しかしリオに悪気はないのだろう。
普段は大体のことを許すマスターだが、今日は少しだけ余裕がなかった。
机の上の書類に向けていた顔を上げ、クソガキを睨みつける。
が、すぐに何かを諦め、疲れたように片手で目を覆い、こめかみを揉んだ。
「そういえば、扉の片方は湖への直通ドアになったのだったね。……でも片方はまだ残っているのだし、魔力で強化されていたあのドアは、強い力を持つ魔道具を作るのにとても適した素材だったのではないかな。だからリーダーも、仕方なくここから持っていったのではない?」
南国の青い鳥のようなウィルが、透き通った声で穏やかに話す。
彼は続けて
「クマちゃんの魔法であれば、普通のドアでも可能なような気もするけれど」
言わなくてもいいことを言った。
そしてルークは、自分が外した扉の片割れに興味を示さず、彼の指をくわえ甘えている愛らしいクマちゃんを、じっと見つめていた。
疲れた顔のマスターが、椅子の背に身体を預ける。
彼は肘置きに手をのせ、足を組み、面倒くさそうに言った。「いいから仕事に行け」
ルークはクマちゃんをあやすように何度か撫で、床に優しくもふ……、と降ろした。
三人が適当に承諾の言葉を返し部屋を出ると、
「クマちゃん。着いてきちゃ駄目じゃん」
片方だけ開いた扉から、部屋の外にクマちゃんが着いてきてしまう。
「あー、そうか。扉が無いんだったか……」
すぐに気がついたマスターは、もこもこを引き取りに廊下へ出た。そして考える。
(いつもは、すぐに扉で三人が見えなくなるからな。はじめての状況に、我慢が出来なくなったんだろう)
彼が目にしたのは、ルークに両手を向け抱っこをねだっているクマちゃんと、そのまま抱き上げてしまいそうなルークだった。
「……気持ちはわかるが。お前が抱いても仕方ねぇだろ」
もこもこが愛おしくて仕方がないのはマスターも同じだ。
こんなもこもこを置いていくのは、身を切られる思いだろう。
ルークが誘惑に負けてしまう前に――。
と、マスターは後ろから近付き、可愛い仕草で彼を待つクマちゃんを、サッと抱き上げた。
「今のうちに行け」
このままだとお互いに辛いだろう。
彼は腕の中のクマちゃんを撫でながら『早くあのドアから湖へ行け』と酒場の方向を顎で示した。
相変わらず無表情だが――切れ長の目を少し伏せたルークと、どことなく悲しそうな二人が、クマちゃんを抱えるマスターに背を向け、気持ちを切り替えるように歩き出す。
しかしその時、幼い子供のような
「クマちゃん」
という声が、その場に響いた。
三人が振り返り、マスターも腕の中の可愛いもこもこを見る。
「……いまこいつ、喋ったか?」
マスターはクマちゃんが話したところを初めて見た。
ルーク達から聞いてはいたが、実際には見たことがなかった。
「――クマちゃんはお話するのも上手だね。……もしかすると、『クマちゃんも一緒に行きたい』と言ったのではない?」
ウィルはクマちゃんが一生懸命伝えようとしたことを思い、切なくなってしまった。
いつも、クマちゃんに背を向け置いていく三人に、〝クマちゃんも〟と言いたかったのだろうか。
「……いや、でもやっぱ無理だって。戦闘はクマちゃんには危ないと思う」
リオは辛そうに目を細め、顔を伏せた。
少しだけ、なんとかできないかと考えてみる。
だがやはり、大型モンスターとクマちゃんが同じ場所にいる状況を想像できない。
ルークは片手が塞がっていても問題ないほど強い。
彼が戦闘中にクマちゃんを落としてしまうことなどあり得ない。
しかし最近、モンスターの分布が変わった。
数が減ったわけではなく、奥に密集しているのだ。
戦闘力の高い自分達が戦う場所は、他の冒険者が担当する場所よりさらに奥だ。
敵が一番多い上、視界が悪く、隠れる場所もない。
癒やしの力で覆われ、モンスターも出ないあの湖ならまだしも、奥地での大型モンスターとの戦闘には危険すぎて連れていけない。
答えは変わらなかった。
「…………」
ルークは「無理だ」の一言が言えなかった。
連れて行ってもらえると信じ切った、黒いつぶらな瞳。
あの幼い子供のような声でもう一度『クマちゃん』と言われたら――。
愛しいもこもこを抱えたまま湖から魔法を撃ちまくり、遠くの敵を倒す方法について考えている途中で、マスターから声が掛かった。
「わかった。……俺が湖でこいつを見てるから、お前らは数時間おきに休憩にこい」
最初に可愛いクマちゃんに負けたのはマスターだった。
純粋で健気なもこもこを、このままにはしておけない。
今の状態だと、三人を追いかけ、湖から森の中へ入ってしまうだろう。
まさかとは思うが、このもこもこは、戦闘の手伝いをしようと考えているのだろうか。
――この推測は間違っていない気がする。
皆の手助けをしたがっているクマちゃんが、ルーク達を助けたいと思っていてもおかしくはない。
「ああ」
ルークはさきほど危険なことを考えていたことなど誰にも悟らせず、彼に答えた。
クマちゃんがマスターの腕の中から彼へ向け、一生懸命お手々を伸ばしている。
視界に入れないよう、視線をずらす――が、すぐに耐えられなくなり、抱っこをせがむもこもこへ手を伸ばした。
「馬鹿やめろ」マスターが腕で防ぐ。
ルークは湖で休憩をとる時間を決めた。一時間に一度でいいだろう。
「俺達は準備してから行く。お前らは先に行ってろ」
マスターは可愛いクマちゃんに「俺もすぐに用意するから、少しだけ待ってくれるか?」とお願いし、ようやく三人を仕事に行かせることに成功した。
◇
マスターから懇願されてしまったクマちゃんは、寂しさをこらえ三人を見送った後、お仕事の部屋で〝準備〟が終わるのを待っていた。
マスターの支度が終わったら、自分も準備しなければならない。
元気になる飲み物を作る準備と、クマちゃんも戦う準備を。
「――じゃあ行くか」
隣の部屋でギルド職員と話をしていたマスターは、机の上で大人しく待っていた可愛らしいクマちゃんを抱き上げた。
書類を適当に掴み、立入禁止区画から酒場へ向かって歩きだす。
マスターが〈クマちゃんのお店〉へ近付くと、もこもこの可愛いお手々が白い建物を指した。
「店に用があるのか?」
腕の中のクマちゃんに尋ね、店のドアに触れる。
チリン――。
涼し気な音が、鼓膜を揺らす。
中に入ったマスターは、もこもこをもふ……と床へ降ろした。
彼が見守る中、クマちゃんはヨチヨチと歩き出し、リュックを開いて床に置いた。
可愛いお手々で棚にある瓶や、冷えた箱から取り出した食材を、そこへ詰めようとしている。
「そんなに持てねぇだろ」
重さでリュックが倒れ、輝く瓶がゴロゴロゴロゴロ――と転がっていく。
マスターは忙しそうなクマちゃんに尋ねた。
「そこの物は、後で職員に湖の家まで運ぶように言っておく。飲み物を作る材料だけでいいのか?」
クマちゃんは一旦動きを止め、つぶらな瞳でマスターを見つめた。
倒れたリュックから杖を取り出し背中を向けると、台所へヨチヨチと近付いてゆく。
ガチャガチャと音を立て、何かを探しているらしい。
カチャ……カチャ……。
マスターは何かを発見してしまったらしいもこもこに質問をした。
「……なんでそれを頭に――いや、なんとなく想像はつくが……」
ヨチヨチと近付いてきたクマちゃんは、片方の耳を隠すように頭に片手鍋をのせ、お手々に杖を持っていた。
おそらく、装備のつもりなのだろう。
大変可愛らしいが、大型モンスターの攻撃は台所用品では防げない。
「それも、食材と一緒でいいだろ。あとで欲しいもんがあったら、湖に書類を持ってくる職員に言えばいい」
彼は愛くるしいクマちゃんの最弱防具をそっと外し、もとの場所へ片付けた。
◇
一人と一匹は元マスターの仕事部屋のソレを通り、展望台の外、隣の家の前へと移動した。
マスターがチラリと湖の周りを確認する。
ギルド職員、冒険者達。彼らは柔らかい敷物や大きなクッションに乗り、見たこともないような顔ではしゃいでいた。
濃い木の色のドアに触れ、中へ入ると、そこでも冒険者が三人くつろいでいる。
「何をしてるんだお前らは……」
もこもこを抱えたマスターは、何故か仕事へ向かわず家の中にいる彼らに、呆れたように尋ねた。
「だってマスター。いつもならこのへんに着くのって一時間は後っすよ」
「それに俺、昨日ここで遊んでないし」
「皆ずるいと思う」
若手の冒険者達が、子供のような主張をする。
クソガキ共は仕事に行かずカードゲームで遊んでいたようだ。
「……わかった。お前ら、時間になったら討伐に行けよ」
外の奴らの主張も大体同じだろう。
大雑把だが仕事をさぼるようなことはしないと分かっている。
時間になれば勝手に動く人間を叱る必要はない。
彼らを放って、切り刻まれずに残ったソファに腰掛け、膝に乗せたもこもこを撫でる。
マスターが書類に意識を向けてしまうと、クマちゃんはお手々の先をくわえ、床で遊ぶ三人を見つめた。
「……なんか見られてねぇ?」
「俺もそうおもう」
「だよね」
クマちゃんは見たことがない物で遊んでいる彼らの手元が気になった。
絵が描いてある気がする。
ギルドカードとは違うようだ。
一人でたくさん持っている。
一つのことが気になると、それに夢中になってしまう猫のようなクマちゃんは、マスターの膝からもふ……と降り、三人の方へ近付いた。
「……近いな」
「手に湿った鼻がくっついてる」
「だよね」
クマちゃんが三人の真似をしはじめる。
車座の中央、床に置いてあるカードを集め、ピンク色の肉球がついたお手々に持とうとしている。
ポロポロと落としながら、結局二枚だけ持てたようだ。
「……見せてんのか?」
「ありがとう。見たよ」
「うん。見た」
若手冒険者達は絵柄をこちらに見せてくれているクマちゃんを、どうすればいいのか分からなかった。
「――こいつも仲間にいれてやってくれ」
マスターが書類をソファに置き、クマちゃんを抱え床に座る。
彼は気が付いた。この幼い生き物を、いままでちゃんと遊ばせてあげていなかったことに。
もこもこの年齢を考えたことが無かったが、絶対に大人ではないだろう。
アルバイトをさせて良い年齢だっただろうか。
――とにかく今は遊び方を教えてやらねば。
マスターは仕事をふたたび中断し、クマちゃんとカードゲームをすることにした。
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