二十二話 ロイメヤ元男爵令嬢の嫁に翻弄される(上)

 私はロイメヤ・ウィプバーン・レクセレンテ。公爵夫人です。帝国では公爵は皇族ですので、私は公妃と呼ばれます。私は大仰過ぎる呼ばれようだと思いますので、使用人には奥様と呼ばせておりますけどね。


 私はウィプバーン公爵家生まれですので、生まれも嫁ぎ先も公爵家。つまり一度も皇族から外れた事が無いという事になります。


 そんな私ですから、シルフィンに初めて会った時には驚きましたよ。何しろ私はこんなに身分の低いご令嬢には初めて会ったのですから。


 そもそもシルフィンが我が家に嫁に来た事情が異常でした。私と夫のヴァレジオンは、毎年、春に領地で魔力奉納をすると、そのまま南へ下り、南西部の海岸沿いにある離宮で休養するのが毎年の恒例だったのです。魔力奉納は疲れますからね。ちなみに息子であるヴィクリートは私達が領地に行くタイミングでいつも国境視察に出掛けていて、不在でした。いつも領地に入り浸っているというのに。


 ヴィクリートは面白い息子で、寒々しくて何も無い公爵領が子供の頃から好きで、南部の離宮に行くくらいならもう少し領地にいたいとごねるような息子でした。十一歳年下のヴィクリートの弟であるベンティアンなどは明らかに南部の方が好きなのですけどね。


 十三歳で夫が領地管理を任せると、ヴィクリートはこれ幸いと領地に行ってほとんど帰って来ないような有様になってしまいました。領地管理が楽しく領地の風土や民が好きだというのも本当でしょうけど、どうも社交が嫌いでご令嬢方に囲まれるのはもっと嫌だったというのが本音らしかったですね。困ったものです。


 同時に貴族の子息としての義務である軍務にも就き、こちらも性に合っていたのか熱心にのめり込みまして、国境各地を熱心に視察し、兵を訓練し、時には兵を率いて山賊対峙や小規模な紛争に出て活躍しておりましたよ。これもまぁ、誇らしいことなのでございますが、母としては心配ですし、ちょっとは社交に出てくれないと色々困るのですけどね。やはり結婚問題がありますから。


 ですから私は何度もヴィクリートを呼び出し、また帝都にたまに帰ってきた所を捕まえて縁談を何度も何件も紹介したのですが、これがもうけんもほろろ。とりつく島もなし。絵姿や釣書を見ることも無く断ってしまいます。これには困りましたね。どう見ても意中の女性がいるからでは無く、結婚などまだ考えたく無いという態度だったのです。


 ただ、ヴィクリートが十五歳になった頃から二つ下である第二皇女イーメリア様との縁談が持ち上がり始めます。こちらは皇帝陛下と私の姉である皇妃様が結構熱心に推してきたのですが、ヴィクリートは言下に断ってしまい、面倒を避けるためかより帝都に寄り着かなくなり、私と顔を合わせるのも嫌がるようになってしまいました。


 ただ、ヴィクリートは嫡男です。結婚しないわけには参りません。いよいよとなれば彼の意志を無視してでも縁談を決めてヴィクリートに妻を押し付けるしかありません。しかし私は、出来ればそれはしたくないと考えていたのです。私の姉の皇妃様は、家の都合により想い人では無い皇帝陛下の元に嫁がされていまして、私はその悲しそうな姉の姿を良く覚えていたからです。


 しかしそんなこんなでヴィクリートも十八歳。これはもう本意では無いけれども、無理にでも嫁を押し付けるしか無いのかな、と私が思い始めていたその時に、なんとあのヴィクリートから「妻になるべき女性と出会った。結婚する」という書簡が届いたのです。


 私と夫は離宮での静養を終え、帝都へゆっくりと帰京する途中でした。離宮から帝都までは街道を飛ばせば五日ですが、道中で領地にいる貴族達と社交を行うのも重要な事ですから、私達はいつも十日は掛けてゆっくりと帰るのです。


 ところがその帰路に、早馬でこんな手紙が届けられたのですから私達は仰天です。な、なんですと! あのヴィクリートが結婚相手を見つけたですって? 私も夫も驚くは不安になるわで、これはもう旅行どころではありません。幸い帝都はもう近かったので、後の予定は全て切り上げて帰京することに致しました。


 使者を出して途中で寄る筈だった領主の所に断りを入れ、私達は馬車を急がせて全速力で帝都を目指しました。するとその途中、帝都邸に残していた執事長のコルミードから早馬で報告書が届きました。今回の件について色々調べてくれたようで、その報告書でした。そこには驚愕の事実が記されていたのです。


 なんとヴィクリートが見付けた嫁というのが、男爵令嬢だというのです。……は? どういうことなのですか? 私は混乱致しました。


 というのは公爵令息のヴィクリートと、男爵令嬢の縁が繋がる理由が想像も出来なかったからです。


 貴族には階級があり、ざっくりですが上位貴族と下位貴族に分けられています。騎士、男爵、子爵までが下位貴族。伯爵、侯爵(辺境伯はここに含みます)、公爵が上位貴族です。これはどういう区分けかと申しますと、簡単に言えば上位貴族は下位貴族を使って政務なり領地経営なりを行う、という事です。上位が雇用者、下位が労働者と言えば分かり易いでしょうか。


 下位貴族は上位貴族に隷属する存在なのです。更に言えば、下位貴族は上位貴族の一族の者から分家していった者達です。帝国においては貴族は貴族の血、大地の女神の祝福を受けた血筋を引く者である事を意味します。全くの平民がそのまま出世して貴族になる事はあり得ません。ですから下位貴族は下から、平民から上がってきた者では無く、必ず上位から下がって来た者達なのです。


 なので貴族の家系を辿るとドンドン上位に遡る事になり、どこかで上位貴族の大本家にたどり着きます。その大本家から枝分かれした下位貴族の者達を含めて、これを「一族」と言います。大本家は一族を統括し、領地を管理し帝都の政務や軍務を振り分け、一族の者達を管理するのです。


 そういう風に完全なピラミッド社会が貴族社会なので、下位と上位の間には深い断絶があるのです。下位貴族の者が上位貴族の前に出てくることはほとんどありません。使用人ですら、上位貴族の前に出てくる上級使用人は上位貴族出身なのです。私は恐らく、これまで男爵や子爵家出身の者と会話をしたことは無いでしょう。会話をしたいとも思いません。無理に話しかけられても嫌悪感を抱いてしまって無視してしまうでしょう。


 ちなみに平民は更に下、支配される者達ですから、支配者である貴族にとって哀れみ慈しむべき者達です。ですから逆に、私達は平民の話を聞くことに抵抗はありません。下々の者達の言葉を聞いて差し上げることは大地の女神の守護を授けし領主とその妻の慈悲ですものね。彼らは私達にとって私達がいなければ生活出来ない可哀想な存在として認識されております。


 ですから、上位貴族の中の上位貴族である公爵令息であるヴィクリートと、男爵令嬢がどうやって知り合ったのか、想像も付かなかった訳です。


 ところがこれがコルミードの報告では、突然帰宅したヴィクリートが、門番に休暇を出していたが為に閉め出され、門前で行き倒れていたところを、たまたま通り掛かったシルフィンが助けたのだという事でした。……なんですかそれは。


 ただ、あり得ない話では無いな、と思いました。私だって誰もお付きの者がいない状態で、門の前に閉め出されたなら何も出来ずに餓死することでしょう。上位貴族というのは使用人になんでもやって貰う癖が付いておりますからね。自分では何も出来ないのです。ヴィクリートは軍務などで旅をすることも多い筈ですから私よりもマシだと思いますが、それでも突発的な事態に対応出来なかったのでしょう。


 なるほど。命を救われた恩に感激したヴィクリートはその男爵令嬢に突発的に惚れてしまったと、そういう事のようです。


 それを聞いて私と夫がまず考えたのは、これはヴィクリートには可哀想だけど、とても認めて上げる訳にはいかないな、という事でした。というより論外でした。


 公爵家嫡男の結婚相手として男爵令嬢なんてあり得ません。歴代の公爵家の婚姻事情を遡っても、何十年も前のどこかの公爵家の三男が、子爵家令嬢と駆け落ちして勘当された、という記録が辛うじてあるくらいで、後は帝室から皇女が降嫁するか、公爵家同士で縁組みするか、悪くても侯爵家か上位の伯爵家との婚姻なのです。


 正直私は男爵という階級があまりにも縁遠すぎて、ちょっと想像が付かないくらいだったのです。そんな男爵令嬢を妻にするなんて無理であり不可能であり、言い出すだけでも前代未聞の大珍事なのです。これが三大公爵家の皆様に知られたら我が家は笑いものになってしまうでしょう。


「……まぁ、まさかヴィクリートも本気ではあるまい」


 と夫は言いましたね。私も同感です。ヴィクリートは命を助けられた事で興奮しているだけなのに違いありません。冷静になればその不可能性に気が付いて諦めてくれる事でしょう。


「まぁ、ヴィクリートが女性に好意を持てると分かっただけでも良かったですわね」


 私もそう言いました。そうですね。ヴィクリートが冷静になってもその女性への好意を失わない場合、愛妾として我が家に迎え入れるのは問題無いと思われます。愛妾には身分を問わないのが普通ですからね。愛する愛妾が既にいれば。たとえ意に沿わぬ妻を娶ってもヴィクリートは不満を持たなくなるでしょう。そう考えると悪い事でもない気がしてきました。ヴィクリートの結婚に向けて一歩前進です。


 そうして私と夫は帝都に急いだのですが、途中でまたコルミードから報告書が届きました。これを読んだ夫が絶句してしまいます。私も慌てて読んでみると、何とヴィクリートが正式に、皇帝陛下と紋章院と元老院に婚約申請を提出したとの報告が記されていました。驚愕です。私達と相談無く話を公にされてしまったのです。ちょ、ちょっと待ちなさいヴィクリート!


 しかし男爵令嬢と公爵令息の婚姻など門前払いでもおかしくはありません。皇帝陛下が認めるはずはありませんし、紋章院も元老院も間違い無く却下するでしょう。出すだけ無駄です。ヴィクリートが恥をかくだけです。でも、あのヴィクリートがそんな無駄なことをするでしょうか? 


 ところがヴィクリートは、ブゼルバ伯爵という者を味方に付けたらしく、男爵令嬢を伯爵の養子とした上で、書類上の体裁を整えたらしいのです。あ、あの馬鹿息子! なんてことしてくれるのですか!


 ブゼルバ伯爵は少し前まで名門伯爵家として少しは名が通っていたお家です。現在はやや没落し掛かっていますが、格で言うなら公爵家に嫁を出しても、ギリギリ問題無いというレベルのお家です。そこの養女となれば、書類上はヴィクリートとそのシルフィンとかいう女性の結婚には問題が無くなるという事になります。


 私と夫は頭を抱えてしまいます。こ、これは本気です。ヴィクリートは一時の気の迷いなどでは無く、本気でシルフィンを妻に迎えるつもりなのです。これは困りました。


 ヴィクリートは頑固です。心は優しいのですが意志が強く、こうと決めたらテコでも動きません。これまで私達が結婚しろと何度言っても聞かなかったように、これではシルフィンと別れろと言っても絶対に私達の言う事を聞きはしないでしょう。廃嫡勘当大歓迎。地の果てまで逃げたってシルフィンと添い遂げると言うに決まっています。


 私と夫は話し合いました。これはもう、認めるしか無いのではないか。書類上の体裁が整っているのだから、後は当主である夫が承認すれば、問題無く婚約の許可は下りるはずです。問題は貴族界の反応と、娘を嫁がせたがっていた皇帝陛下がどういう反応を見せるかどうかでしたが、そこは話の持って行きようでどうにかなるだろうと思ったのです。


 それに私も夫も、あの女嫌いのヴィクリートが惚れ込んだ女性がどんな者か、興味が沸いてきていたのです。私と夫は取るものも取りあえず帝都へと急ぎました。


  ◇◇◇


 帝都に帰り着き、公爵邸に入ってもヴィクリートはいませんでした。何でもまだブゼルバ伯爵邸に滞在しているのだそうです。詳しい話を聞くと、シルフィンはブゼルバ伯爵家の一族の者で、そこで一族の伝手で侍女として働いていたのだとか。


 公爵邸と連絡が付いて三日も経っているのに帰宅していないのです。これは、ブゼルバ伯爵と完全に話を付けてしまっているに違いありません。ブゼルバ伯爵家は一族を成すお家で、実は遙か昔に皇族から分岐したお家で中々の名家なのです。帝国も大昔はまだ小さく、ブゼルバ伯爵家が分かれた当時は公爵や侯爵がおらず伯爵が貴族の最高位でした。その頃から続く歴史ある伯爵家なので、そこの養子なら十分公爵家の嫡男の嫁にしても格は釣り合います。


 私と夫はここで完全に諦めました。認める事に致しましょう。このお話を潰したらヴィクリートは怒って、二度と結婚しようとしないことでしょう。本当にあの子は頑固ですからね。だからヴィクリートがシルフィンと共に帰宅して、晩餐でシルフィンに最初に面会する際、私も夫もシルフィンを拒絶しないように気を付けていました。もっとも、身分卑しい女と会うのですから、私も夫もかなり覚悟を決めて臨んだのです。


 シルフィンとの初対面の時はよく覚えていますよ。私達の入室にシルフィンは緊張して身体を強ばらせていましたね。


 赤み掛かった金髪に水色の瞳。背は小さく痩せ型。ですけど非常に姿勢が良く、緊張して恐縮はしても私としっかり目を合わせる非常に度胸の良い子だと思いました。声を震わせながらも私ときちんと会話し、論旨は明瞭。ふむ。私は感心致しましたよ。上位の夫人と会話をするとパニックになって会話が支離滅裂になってしまう娘は少なくありませんからね。


 そして彼女を守るように抱き寄せるヴィクリートです。これはもう駄目です。この子がこんなにはっきり女性への好意を現す姿は見たことがありません。私は呆れると同時に嬉しくもなりましたし、シルフィンへの興味を強くも致しました。ヴィクリートの人を見る目は確かだと思っておりますからね。


 人間の本性を見るには食事を共にするのが一番です。人は食事の時には無防備になります。社交において晩餐や昼食会、あるいはお茶会などモノを食べる社交が多いのは、食べる姿を見ることで同席の方の本性がさらけ出されるからです。マナーや作法を守ることである程度ガードは出来ますが、経験豊富で視線が鋭い貴族の事をごまかす事は困難ですね。


 ですから私はシルフィンの食事の様子を注視していました。この女性がヴィクリートを上手く騙しているのではないかと疑っていたからです。食事の姿を見ればそれは分かると思っておりましたよ。私は何しろ高位貴族夫人として社交界で揉まれていますからね。私の前で猫を被り続けるのは困難だと思って貰って結構です。


 ですが、注視する必要はありませんでした。何しろ当時のシルフィンは庶民同然。食事の作法は全然知らなかったのです。マナー作法以前の問題です。スープの飲み方すら怪しい感じで、カトラリーを持つ手も危なっかしいものでした。これは酷い。我が家の七才の息子ベンティアンよりも遙かに酷いです。


 しかし見ていればすぐに分かりましたが、シルフィンは自分がマナーや作法が出来ていないことを十分に認識していました。ですから、何かの料理に手を付ける前に、ヴィクリートなり私なりの手付きを見て、それを慎重に真似ていたのです。真剣な目つきで私の手元を見て、自分でもやってみて、そしてまた今度は夫の手元を見るという感じです。私は感心致しました。これは自分の不足を知って常に改善の努力をしている事を意味します。


 自分に出来ない事を「出来ない」と放置したり、やらなかったりする者は上位貴族にも大勢おります。不足を認めようとせず、間違った作法で平然としている者もおります。マナーや作法は最初から出来る者などいないのですから改善すれば良いのです。それをしないのはただの怠慢でしょう。シルフィンは怠慢な者では無いようです。


 そして面白いことに、私や夫が何か話し掛けると、それは緊張している様子なのですが。ちゃんと考えた返事をよこすのです。彼女の故郷の事を聞くと、農業が盛んで小麦の産地で、自分の父であった男爵を手伝って自分も農業をしていた、というような事を正直に話すのです。これにも感心しましたよ。


 社交デビューの令嬢が、高位貴族夫人のお茶会に連れて来られて、まともな受け答えが出来る事などまずありません。大抵は緊張のあまり支離滅裂な事を口走ったり、自分を大きく見せるためのバレバレの大法螺を吹いて顰蹙を買うのが普通です。ところがシルフィンにはそのような様子は一切見られません。少し話をすると普通に笑顔を見せてくれますし、私へ質問したり、時には誤りを指摘することまでしました。


 私も感心致しましたが、夫はもっと感銘を受けたようでした。夫は有能な者が好きです。自分の意見をはっきり言える者が好きです。ですから、この食事の間に夫はシルフィンの事がかなり気に入った様子でした。私もシルフィンが気に入りました。食事に同席してあんなに作法が不安なのに全く不快感を覚えませんでしたし、楽しく食事が出来ました。合格です。私はこの娘なら我が家の嫁に迎え入れても良いと、この時には既に考え始めていました。


 食後のサロンでシルフィンが印象的な台詞を言いました。夫がヴィクリートがどうしてもシルフィンの事を妻に迎えるのだ、と決意を示して、夫が満足して「其方がそうまで言うなら私はもう何も言わぬ。見事シルフィンを妃にしてみせるが良い」と婚姻の許可を出した時の事です。


 シルフィンが慌てたように言ったのです。


「あの、大丈夫なのですか? そんな事をしたらヴィクリートが、というか公爵家が皇帝陛下から怒られたり、他の家から非難されたりしませんか?」


 これには私も夫も、ヴィクリートも驚きましたよ。


 こんな事は普通は気が回らないからです。彼女は身分低い状態からいきなり公爵家に連れて来られて、右も左も分からない状態の筈です。食事の仕方にさえ四苦八苦していたのですからね。


 必死で緊張に耐え、私達に囲まれて身を固くしているにも関わらず、結婚の許可を与えた夫の言葉への反応が、なんと我が家の評判に対する気遣いだったのです。自分が身分低い者であり、自分を娶る事でヴィクリートと我が家が困難に直面することを十分に理解している発言です。これには驚き、感心致しましたよ。夫ももの凄く満足そうな顔で「心配する必要は無い」言いましたよ。完全にシルフィンの事を認めたのでしょう。


  ◇◇◇


 私もヴィクリートが連れてきた嫁の資質には大変満足致しました。ですから、残る懸念は一つでした。


 それはシルフィンの感情です。


 彼女は身分低い者です。つまりヴィクリートが言う事に逆らえない者である事を意味します。ヴィクリートは何しろ生まれながらの次期公爵ですから、他人を自分に従わせることを何とも思っていないのです。


 ですから、シルフィンは恐らく、自分の意志に関係無くこの公爵邸に連れて来られたことでしょう。そして彼女はこれから、経験したことも無い上位貴族の社交の場へ出て行かねばなりません。


 その困難さはシルフィンの想像以上でしょう。私はシルフィンがかなり聡明な女性である事を認めましたが、その困難に耐えるには聡明で有るだけでは困難だと思います。


 執着が要ります。彼女がどうしてもヴィクリートと離れたくないと考える。そういう執着が無いと、おそらくはこれから行わなければならない厳しい教育や、どう考えても彼女に対して好意的では無かろう社交界に耐えられないと思うのです。


 それは別に愛情で無くても構いません。名誉欲、出世欲、財産欲でも構いません。何か厳しい状況に耐えられる執着が無く、彼女の心が折れてしまうような事があると、ヴィクリートは妻を失い、我が家は大きな損失を被ることになるでしょう。見極めなければいけません彼女が耐えられるのかどうかを。


 私はシルフィンを私の私室に招きました。


「わざわざ悪かったわね」


「と、とんでもございません」


 人払いをするとシルフィンはあからさまに表情を強ばらせました。こうしてみるとやはり、表情を取り繕うことも学んでこなかった身分低い者であると分かります。これではどの程度教育すれば上位貴族の前に出せる淑女になるのか、想像も付きませんね。


 私は思わず彼女にわびました。


「馬鹿息子がごめんなさいね。アレも自分の行動が他人に迷惑を掛けることを弁えてくれないと。自分が貴女にどれほどの無理を強いているのか、分かっていないのよ」


 そして私はシルフィンに、社交界に既にヴィクリートが結婚するという噂が流れている実情を話し、こうなってはどうしても何としてもシルフィンにヴィクリートと結婚して貰うしか無いという話をしました。


 シルフィンは目を白黒させています。それはそうでしょう。彼女には何もかも未知の世界の筈です。それでも彼女は自分などがヴィクリートの妻になって良いものなのかと私に確かめています。


 ふむ。私はその様子を見て気が付きました。シルフィンもヴィクリートの事を憎からず思っている事に。我が家の評判の事を案じ、ヴィクリートとの釣り合いを気にするのは、自分も身分的には相応しくないと知りながら、ヴィクリートと結ばれたがっているのに違いありません。


 ならば話は簡単ですね。私は言いました。


「それで? どうですか? 貴女はヴィクリートをどう思っているのですか?」


 あからさまに動揺するシルフィンに私はあえて貴族の結婚事情を話しました。家同士の繋がりが最優先である貴族の結婚事情を。そして、それで得られぬ愛情を得るために恋人を愛妾や愛人にするという事情を。私は夫の事を愛していましたから愛人など欲しいと思ったこともありませんでしたが、私の姉は満たされぬ愛情を満たすために何人か愛人を持った事もあるようです。ですが、彼女の真の想い人は他におりましたから、結局ご満足なされなかったようですが。


 私の話を聞くと、シルフィンの表情が変わりました。戸惑ったものから明らかに気分を害したような。つまり怒りの表情を見せています。彼女は私の事を意外に怖い顔で睨みました。我を失っているという風ではありません。どうも私の話した貴族の結婚事情は、彼女の譲れない何かに触れてしまったようです。


 ああ、彼女は自分の大事なものを守るためならば、恐れを克服して戦う事の出来る女性なのだな、と私には分かりました。


 その彼女が他ならぬヴィクリートを愛してくれたのです。


「ええ! 愛します! ヴィクリートが私を愛してくれるなら、私も彼を力の限り愛します!」


 こんな素敵な言葉で愛を訴えてくれたのです。母としてこれほど嬉しいことはございません。


 よろしい。容姿的にも人格的にも、能力的にも我が家の嫁に申し分有りません。お作法や教養もこの度胸と気持ちがあるのならすぐに身に付けてくれるでしょう。


 私はシルフィンを我が娘と認め、全力で教育を施し、護り、助ける事を決意したのでした。


 ……ですが、この時はまだ、私は知りませんでした。


 シルフィンは短時間会っただけで私が把握出来るような、小さな娘では無かったのです。


――――――――――――

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