第44話 海の揺らぎ


 お会計を終えて粋先輩の元に戻ると、粋先輩はニコリと笑って自然な手つきでボクの手を取った。明るい、しかも出口で男2人が手を繋いでいるなんて目立って仕方がない。慌てて手を離そうとしたけれど、粋先輩は力強く握っていて離してくれそうにない。



「あの、粋先輩」


「聖夜くん。海の方に行きませんか?」


「い、行きたいです。でも、あの、手……」


「じゃあ、行きましょうか」



 僕の言葉なんて聞こえていないかのように、そのままグイグイと手を引かれて水族館の外に連れ出される。そのまま木々が生い茂る小道を歩いて、階段を下りる。


 潮の香りが強くなってきた。石畳と砂浜の先に見える海に太陽の光がゆらゆらと反射して思わず目を細める。



「ここなら、人は少ないですね」


「そう、ですね」



 確かに冬の海は人が少ない。だけど、誰かに見られてしまうリスクが全くないわけではない。


 きっと分かっているはずなのに、粋先輩は石畳の端に腰かけた。そして自分が座った隣にハンカチを敷いて、ボクにそこに座るように促した。



「綺麗ですね」


「そう、ですね」



 ボクとしては繋がれた手に意識が行ってしまって正直景色どころではない。痛いほどに胸がドキドキしているのは人目を気にする緊張からなのか、それともただ純粋に粋先輩と手を繋いでいることに対するときめきなのか。あぁでも、両方かも。


 目を閉じてふぅっと深く息を吐く。気持ちばかり心臓の高鳴りが治まったのを感じながら目を開けて顔を上げた。そのまま正面に広がる海に目を向けると、さっきよりも水面を反射する光が多く視界に入ってきた。遠く沖の方をゆっくりと進む船がミニチュアのように景色を彩る。



「綺麗」



 ため息のような吐息と一緒に言葉が溢れ出る。思わず見入っていると、隣からクスクスと笑う声が聞えた。



「なんですか?」


「ふふっ、ごめんなさい。あまりにもキラキラした目をしていたから、幸せだなと思いまして」



 つい拗ねたような声が出てしまったけれど、粋先輩はそれすらも愛おしそうに目を細めて微笑んだ。その凪いだ表情が景色の何倍も、何十倍も愛おしくて、その瞳が自分を捉えている事実に照れ臭くなる。思わずパッと視線を逸らすと、粋先輩はまたクスクスと笑いながらボクの頭を梳くように撫でた。



「聖夜くんは僕の光なんですよ」



 急な言葉に戸惑って粋先輩の方に顔を向けると、粋先輩はボクから手を離した。視線を泳がせて身体の向きごと海の方へ向いてしまうと、伏し目がちに海を見つめた。その横顔が魅せる儚い美しさに一瞬時間がゆっくりになった気がした。


 お互いに微動だにしない時間が続いて、遠くに聞こえたギターの音色にハッと意識が戻された。穏やかな音色と、それに重なる歌声。どこか寂し気な音色に胸がざわついた。



「粋先輩?」


「うーん、ちょっとカッコつけてしまいましたね。でも、本心なんですよ」



 変わらない穏やかな口調で話しながらも、その表情には慈しみの他に照れが浮かんでいた。覗き込もうとするとフイッと逸らされてしまう。そのままふわりと粋先輩がいなくなってしまいそうで、その手を強く握り直した。



「僕は、聖夜くんと武蔵くんと出会って孤独を感じなくなりました」



 粋先輩がゆっくりと、静かに話し始めた声を聞き逃さないように相槌だけを打つ。



「それまでは家族はもちろん、周りの人とも距離を感じていました。高校生になって本当に友人だと思ってくれる相手ができてからもどこか無意識のうちに一線を引いてしまっていて、急な虚しさに襲われることもあったんです」



 さっき聞いたボクに恋に落ちてくれた瞬間とは対照的な暗さを感じる話。波とギターの音と歌声がより一層物寂しさを演出する。



「聖夜くんに恋をして、世界が色づきました。聖夜くんがいるところはいつも輝いていて、つい視線が引き寄せられてしまうような気だってしたんです。聖夜くんがいればそれだけで僕の世界が明るくなって、穏やかな気持ちになって、幸せを感じていました。あの日までは」



 粋先輩は言葉を切って、ふぅっと深く息を吐いた。



「聖夜くんが武蔵くんに告白されている場面を目の当たりにして、僕は暗闇に突き落とされたような気がしました。ですが、どうしても受け入れられなくて、光に手を伸ばしたんです」



 あの日の粋先輩の凛々しい姿の裏にあった必死な気持ち。知れば知るほど粋先輩に対する愛おしさが増していく。



「聖夜くんと付き合えることになってから、聖夜くんの強さや優しさに触れました。毎日好きを更新して、光に導かれて。聖夜くんがいるだけで幸せで、笑っていてくれればもっと幸せになれます。それに、聖夜くんのおかげで武蔵くんにも出会えました」



 この話の流れで武蔵くんの名前が出てきて呼吸がキュッと苦しくなる。愛情を疑っているわけでもなんでもないけれど、そのベクトルが変わってしまうことを心の底から恐れていることを実感する。


 聞きたいような、聞きたくないような。こっちを向かない粋先輩はそれに気が付いているのか分からないけれど、繋いだ手を握り直されてまた口が開かれた。



「武蔵くんは僕の背中を押してくれる人です。前に進みたいときにも、蹲ってしまったときにも背中を押してくれます。僕はまだ、暗闇の中で光に導かれる中で迷わず光に向かって進むために導いてくれる人が必要なんです」



 寂し気に笑った粋先輩の横顔にホッとした。空気が読めていないとは思ったけれど、嬉しかった。


 それは多分、今まで感じていた不安が拭われたからだと思う。粋先輩のなかでボクと武蔵くんの立ち位置が明確に違うことが分かったから。それが本当でも嘘でもそんなことは関係なくて、ボクの不安に気が付いてわざわざ言葉にしてくれただけで安心できた。



「僕はまだ今の自分の幸せに実感が湧かないから武蔵くんがいないと、聖夜くんの手を取ることも難しいんです。聖夜くんのことを幸せにできているか、自信がないんです」


「そう、だったんですね」


「はい。ごめんなさい。こんな僕で」



 粋先輩はグッと唇を噛みしめて足元の石畳に視線を落とした。その少し低い位置にある肩に頭を預けてみる。ちょっと首が痛いけど、温かくて居心地はすごく良い。



「ボクは粋先輩の隣にいられて幸せですよ」



 やっとこっちを向いてくれた粋先輩に繋いでいた手をそっと引かれて、その胸の中に抱き込まれた。周りのことなんてすっかり見えなくなって、その広くて温かい、逞しい腕に抱き締められた。



「ありがとうございます」



 粋先輩はただそう言ってボクの肩を濡らす。それには気が付かないふりをして、ボクもその背中に腕を回した。トントンと背中を叩けば粋先輩が小さく笑ってくれている温かさを感じる。



「2人といれば、僕は1人じゃない」



 小さく呟かれた言葉に背中に回した腕に力を込めた。粋先輩がボクに言えないことがあっても、武蔵くんがいてくれる。その関係性の中にいることが粋先輩の助けになるなら。



「そうですよ。ボクたちが1人になんてしません」



 小さく耳に響いていたギターの音色が悲し気なものから前向きなメロディに変わる。どこかで聞いたことのあるメロディに背中を押されている気がする。


 ギターの音色と2つの歌声。その三重奏が心地よくて、不思議と穏やかな気持ちになれた。ゆっくりとお互いに身体を離すと、そのメロディに耳を傾けた。



「この曲、悠仁がよく聞いていますよ。確か、『Winner』でしたっけ」


「そうですね。うちでも最近、真昼姉ちゃんが好きでよく聞いています」



 浜辺に響くそのメロディとともに楽し気に揺れる水面が、いつの間にか傾きかけた夕陽に照らされてオレンジ色にきらめいた。



「今日はありがとうございました。とっても楽しかったです」


「ボクも楽しかったです。あ、そうだ。これ、3人でお揃いにしたいなって思ってストラップ、買ったんです」



 さっき買ったキーストラップを1つ、袋から出して粋先輩に手渡した。



「これもペンギンさんです。武蔵くんには明日渡しましょう」


「なるほど。2人のお揃いも、3人のお揃いもってことですか」


「欲張りでごめんなさい」



 そう言いながらもお互いに嬉しくて、幸せな気分になる。



「じゃあ、こっちのぬいぐるみは、聖夜くんにオウサマペンギンを渡しておきます」



 粋先輩も袋から出したぬいぐるみを渡してくれた。腕に収まる良いサイズ感のオウサマペンギン。



「この子を見たら、僕のことを思い出してくださいね」



 夕陽の中でいたずらに笑う粋先輩の美しさに当てられて、穏やかに落ち着いていたはずの心臓がまたドキドキと跳ね始める。顔が赤くなったのを悟られたくなくて、もう1度粋先輩に抱き着いた。



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