しばし訪れた静寂を破ったのは、溜め息だった。


「相変わらずよな、ゼオギア」


 部下がいる間は陛下、と恭しく呼んでいた魔王に向かって、リリスは言い放った。

 魔王は黙ったまま、王妃の隣に鎮座する玉座へ深く腰掛ける。逞しい身体を背もたれに預け、天井を仰ぐ。

 そして――




「リリスよ……俺の部下は、今日も実に可愛いな……!」


 噛み締めるように呟いた魔王は、眉も まなじりも下がり、頬と口元は緩みきって、緊張感のカケラもない、至福の面持ちを浮かべていた。

 リリスはひどくうんざりした様子で肘掛けに頬杖をつき、再び深々と溜め息をついた。


「はあぁ〜〜……なにが可愛いのじゃ、あんなヤギ脚の小男が。まったく理解できん」

「何を言う!」


 魔王は背もたれに預けていた身体をガバッと起こして前のめりになりながら、隣の玉座に座る王妃に力説を始めた。それまでは静かで穏やかな声色だったが、興奮に上擦って早口になっている。そして、それまで寡黙だったのから打って変わり、非常に饒舌だった。


「あの愛らしい蹄で、踊るように跳ねる走り方……まるで遊び盛りの仔ヤギのようではないか! それに、あのしなやかな尻尾、あれはギギラの感情に合わせて動くのだぞ。驚いた時は跳ね、落胆すればしおれ、喜ぶ時は揺れて……可愛らしいにも程がある! もちろん、姿形の可愛さだけではないぞ。勇者や人間にはどこまでも底意地悪く振る舞うというのに、俺に対してはあのように恐縮してしまう……この落差がまた実に いではないか! 先ほどもあんなに必死で縋りついてきて、もう抱きしめたくなるほど――」

「わかったわかった、わらわが悪かったから、もういい」


 リリスはうんざりした顔で、途中から自らの尖った耳を両手で塞いでいた。

 その仕草に、ゼオギアはハッと息を呑む。そして、自身の分厚い胸板に手を添え、誠実な態度で語りかける。


「そうか……気づかずにすまなかった、我が王妃よ。もちろん、本日のリリスも実に、実に愛らしいとも。唇がいちだんと青く色づいて、まさに魔界に咲く最も可憐な薔薇――」

「ええい、やめんか! 部下を褒められて嫉妬したわけではない!」


 リリスは夫の甘い台詞に喜ぶどころか顔をしかめ、鬱陶しがるようにそっぽを向いた。

 そして、ほとほと呆れたとばかりに額を押さえる。


「まったく……なんなのじゃ、おぬしの“それ”は! 全ての部下、全ての魔族が愛おしいなど……改めて言うが、どうかしておるぞ!」

「そう言われても……仕方ないだろう」


 魔王は困ったように眉を下げながらも、背もたれに身を預け直し、腕を組んでしみじみとのたまう。


「どの魔族たちも、可愛くて可愛くて、目の中に入れても痛くないのだ!」


 ゼオギアの言葉に、一切の嘘も誇張もなかった。

 彼は別に、男色家でもなければ幼女趣味でもない。

 自身の部下も王妃も、等しく愛おしくてたまらないだけである。


「……よいか、ゼオギア」


 リリスはひとつ咳払いをしてから、ビシッと人差し指を魔王につきつける。


「配下の者どもを気遣うのは構わん。じゃが、何度も言っているように……おぬしの“それ”は、表に出すにも限度がある。もし部下を前にして、そのように可愛いだの愛らしいだの連呼してみろ。示しがつかんどころではないぞ。皆、おぬしを色んな意味で畏れて近づかなくなるじゃろう」

「しかし……リリスはあの時、俺の想いを受け入れてくれたではないか」

「受け入れたわけではないッ! 思い出すだけでも、あの三日間は……なんというか、キツかったわ!」


 あの三日間と言うのは、魔王交代の顛末である。

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