Ⅲ
「も、申し訳ございませんッ、魔王様ァ……!」
ギギラは魔王の足元に這いつくばっていた。
勇者たちの前から姿を消した魔王とギギラは、そのまま魔界へ、そして魔王城の玉座の間へと魔法で
玉座の間とは言ったが、人間界のそれとは趣が大きく異なっている。
無数の燭台以外、広々とした室内に装飾の類は無い。代わりに、壁際には古今東西、あらゆる武具が取り囲むように飾られていた。
この玉座の間は、新たな魔王の座を求めて挑んでくる魔族を迎え撃つ、熾烈な戦いの場でもあるのだった。
その玉座の間の、古い血の痕がうっすらと残る床に膝をつき、矮小な魔族は魔王ゼオギアのマントに取り縋った。未だ脚に受けた矢の毒で力が入らず、立ち上がることができずにいる。
「こ、この失態は、次で必ず取り返します! ですから、ですからどうかお許しを……お慈悲を! もう一度、このギギラに挽回の機会を……!」
背を向けて沈黙する魔王を見上げて、ギギラは訴える。魔法の礫に打たれた頬を腫らし、泣き出しそうに歪んだ顔は、実に哀れだった。
「見苦しいのう、ギギラ」
魔王ともギギラとも違う、子猫の鳴き声のような愛らしい声が、嘲笑うように響いた。
人間界とは異なる玉座の間だが、背もたれの高い玉座が二つ、並んでしつらえてあるのは変わりない(ただし、魔獣の骨や皮や鱗で仕立てられた禍々しい椅子という点は違っているだろう)。
その玉座のひとつに、ひとりの少女が腰掛けていた。
あどけない、しかし不思議に艶めかしい美少女である。
真紅の瞳、魔族の血の色が透けて青く色づいた唇、緩く波打つ白い髪。ほっそりとした体に薄いヴェールを巻きつけ、足元は裸足。身長に比べ玉座が高いせいで、つま先が床から浮いて揺れている。
「リ、リリス様……」
ギギラは魔王のマントに縋りついたまま、いっそう顔を引き攣らせ、か細い声でその名を口にした。可憐な少女を恐れ、屈強な魔王に助けを求めるような有様だった。
「そなた、これまで幾度も勇者の妨害を失敗しておるな。わらわの治世であれば、とうに首を刎ねておるところじゃ。ゼオギア陛下の温情に感謝せよ」
第44代――つまり先代の魔王にして、現魔王ゼオギアの王妃・リリス。
サキュバスである彼女は、さらに前代の魔王の寵愛を受けた
前王が見込んだ通り、彼女は兵の指揮と采配に優れる智将となり、人間界の征服まで後一歩のところまで至った。
サキュバス、及びその男性型であるインキュバスは、魔族の中でも特殊な種族である。盛りを過ぎると、肉体は老いるのではなく若返っていき、やがて幼い子どもの姿となる。
リリスは王座についている間にも数多の魔族と交わり、後に猛将となる子らを成した。サキュバスとしての務めができる体ではなくなっても、その知略と、時に部下を容赦なく切り捨てる苛烈さに、衰えはなかった。
そんなリリスから次代の魔王を引き継いだのが、ゼオギアである。
ゼオギアが如何にして王座を奪い、リリスを王妃としたのか、詳細は他の魔族の誰も知らない。
人払いをして玉座の間にこもること、丸三日間。二人の間に何があったのか……熾烈な戦いがあったとも、ゼオギアがリリスを口説き落としたとも、はたまた“体で”屈服させたとも噂されている。
「ところで、いつまで陛下のお召し物を汚すつもりかのう?」
「……!!」
リリスの指摘に、ギギラはひしと縋っていた魔王のマントを弾かれたように手放すと、額を床に擦り付けんばかりに
リリスは魔王への無礼に心から難色を示したわけではない。その証拠に、クスクスと愉しげに笑い声をこぼしている。猫がネズミを甚振って遊ぶように。
それまで沈黙していた魔王ゼオギアだったが、やがてゆっくりと振り向く。
ギギラは気配でそれを感じ取ったが、すぐには顔を上げることが出来ず、身を硬くしていた。
「傷を見せよ」
低い声が予想よりずっと近くから聞こえたので、ギギラは驚いて顔を上げる。
目と鼻の先に、片膝をついて長身を屈めた魔王の、端正な顔がある。静かな表情からは感情を読み取ることが難しい。
魔王が膝をついているという事実が信じられず、ギギラはぽかんとして、何を命じられたかわからなかった。
部下が呆然としている間に、魔王は手を伸ばし、傷を負いへたり込んでいる山羊の脚に触れた。
力無く床に垂れていた尻尾の先が、驚いた様子でピクリと跳ねる。
青い血がこびりついた毛の奥で、傷口が毒によって黒々と爛れている。
魔王は眉ひとつ顰めず、そこに厚い掌をかざした。ふわりと、柔らかな光が男の脚を包んだ。
程なくして傷口はみるみるうちに塞がり、痕も残さず消え去った。
「ま、魔王様……!?」
ギギラは仰天し、同時にひどく恐縮して身を縮める。自分を治癒する魔力の消費が勿体無いとでも言うように。
リリスは、今度は何も言わず、実に淡白な表情で自身の夫を見つめていた。
「次はこちらだな」
魔王はギギラの脚から、腫れて痣になった頬へと手を伸ばす。
しかし、魔王の指が触れる前に、リリスが「陛下、」と静かに呼びかけた。
「あまり甘い顔をされては、示しがつきませぬ」
「……そうだったな」
王妃の進言を魔王がすんなりと受け入れている間に、ギギラは蹄で床を蹴り、魔王の間近から素早く飛び退いた。
その時初めて、体の自由を奪っていた毒さえ、綺麗さっぱりと消え去っていることに気づく。
「あ、わわ、わっ……ま、魔王様のお慈悲、心の底からありがたく……! しかし、ギギラのような下々のモノには、もったいないことで……」
少し離れた場所で、床に両手と両膝をついてペコペコと頭を下げる。その伏せられた顔には、畏怖と戸惑いが浮かんでいた。
魔王はゆっくりとした動作で立ち上がり、部下へ静かに語りかける。
「我が配下に、上下の区別はない……人間界への侵攻は、まだこれからだ。今後の働きに期待している」
「ゼ……ゼオギア様……!」
ハッと顔を上げたギギラは、その目にうっすらと涙さえ浮かべていた。
ゼオギアは静かな面差しに、微かな笑みを浮かべた。
「……下がれ。体をよく労わるがよい」
「は、ははあっ!」
ギギラは最後にもう一度、床に額を擦り付けると、まさに飛び跳ねるようにして玉座の間を去った。
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