31

 マノンがフェール公爵家に帰宅すると、玄関広間で父であるフェール公爵セルジュ・ウルスが執事のサムソンと話をしている最中だった。まだ外套を羽織ったままであるところを見ると、到着して間もないようだ。

「お父様。お帰りなさいませ」

 従僕が玄関の扉を閉める音を聞きながらマノンが父に声を掛ける。

 彼女と一緒に馬車を降りて屋敷に入ったジルベールは、一瞬だけ足の動きを止めると、マノンには気づかれないように二歩下がった。

「あぁ、いま帰った。おや、殿下。我が家にいらしていたのですか。ご機嫌よう」

 娘には笑みを見せつつ、背後のジルベールには冷ややかな視線を送る。

「フェール公爵。挨拶が遅くなって申し訳ないが、三日ほどこちらに勝手に滞在させていただいている」

 まっすぐにフェール公爵を見つめつつも、ジルベールの表情はやや緊張していた。

 なんといってもフェール公爵はジルベールよりも頭半分以上背丈があり、鎧のような筋肉に全身が包まれている。腕の太さだけでもジルベールの二倍近くあり、その堂々たる巨体が放つ威圧感に動じないのはフェール公爵の家族だけだ。

 王子であるジルベールは宰相を筆頭とする大臣たち官僚の独特な高慢さには慣れているが、フェール公爵の圧倒的な威厳にはいつも屈している。なにしろ、存在そのものが壁なのだ。公爵が不機嫌なときは、ジルベールでさえ近づきたくないと思うことがある。

 マノンはいつも父の機嫌などほとんど気にせず、父の傍若無人な振る舞いをたしなめたり、王宮での武勇伝に顔をしかめたりしているので、ジルベールはいつもフェール公爵を前にすると無意識にマノンよりも二、三歩後ろに立ってしまう。

 フェール公爵邸の使用人たちの「王子様でもそうなりますか」という無言の視線は痛いが、フェール公爵の存在感にはなかなか慣れることができないのだ。

 そんなことを繰り返しているうちに、いつの間にかジルベールはマノンの二、三歩後を歩くのが習慣になってしまった。

 父である国王には何度かたしなめられたが、もうすっかり無意識の行動になってしまっているので、なかなか常にマノンの隣を歩くことができずにいる。腕を組んでいるときならできるのだが、あまりマノンと密着しているとフェール公爵の睨み付けるような視線だけで心臓が停止しそうになるので、必要最低限に控えている。

「娘から、手紙で報せは受け取っておりますよ。ご遠慮なく、お好きなだけ我が家にお泊まりください」

 慇懃な態度でフェール公爵は答えたが、それが社交辞令であることは当然ながらジルベールも理解していた。

 社交辞令だと思っていないのは、マノンだけだ。

「お父様がそういうことを言うから、世間はお父様が無理矢理ジルベール様を屋敷に滞在させているとか、軟禁しているとか噂するのよ」

「では、殿下には早々にお帰りいただこうか」

 娘の言質を取ってフェール公爵はジルベールを追い出しにかかる。

 最初からそのつもりだったのだろうが、さすがに会って三秒で娘の婚約者を追い返したことが公爵夫人に知られると拙いので、一応は当主らしい振る舞いをしたのだろう。

「殿下は儂が不在にしている間、屋敷内の問題についていろいろと手を貸してくださったと聞いております。お手数をおかけしたお詫びとお礼をしなければと思っていたところではありますが、後日にいたしましょう」

 ジルベールを睨むフェール公爵の顔には「さっさと王宮に帰れ」と書いてある。

 家族水入らずを好むフェール公爵は、客人が屋敷に滞在することをあまり好まないのだ。

「お詫びとお礼はできるだけすぐにするものでしょう? 後日なんて言ってるうちに、お父様は借りをすぐに忘れてしまうじゃないの」

 マノンの指摘に、フェール公爵は喉を鳴らして笑う。

 その態度を不気味だと思わないのは、この場ではマノンだけだ。

 ジルベールは、ひぐまがゴロゴロと喉を鳴らしているようにしか見えない。

「お父様は人への貸しは忘れなくても、借りはすぐに忘れてしまうんだから」

「王も同じだ」

「陛下と同じだからって言い訳にはならないわよ。またお母様に叱られたいの?」

「それはできれば遠慮したいな」

 別に叱られることを恐れる風ではないが、フェール公爵は弱みを突かれたような顔をした。

「奥様はすこし前にお戻りです」

 サムソンがフェール公爵とマノンに向かって報告する。

「さきほど、温室の火事による損傷具合を見に行かれるとおっしゃっていました」

「あら、そうなの。温室に植えてあったお母様が大切にされていた木のほとんどは確か焼けてしまっていたけれど、大丈夫かしら」

「…………え?」

 途端に、フェール公爵の顔が引き攣る。

「温室の火事は放火のようだけど、犯人はまだ見つけ出せていないの。もし犯人が見つかったら、お母様は怒りのあまりご自身で八つ裂きにするって言うでしょうけれど、犯人が見つかるまでは『いつになったら犯人が見つかるんだ』ってお父様に八つ当たりをするでしょうね」

「……は、犯人の目星は?」

「よくわからないわ。不審者が中庭をうろついていたって報告はあったけれど、誰がどんな目的で火を点けたのかすらわからないし」

 偽者のリリアーヌ・オランドの逃亡を手助けするため、という憶測はひとまず口にしないことにした。ジンク伯爵邸での本物のリリアーヌ・オランドとの会話から、どうやら偽者のリリアーヌ・オランドと不審者が繋がっている可能性は低いと判断したためだ。

「犯人の捜索は」

「お父様がなかなか戻ってきてくださらなかったから、わたくしもどうすれば良いかわからなくて、火事場の片付けの方に人員を割いてしまっていたの。だから、ほとんど犯人捜しはできていないわ。でも、お父様が戻ってきてくださったからには百人力ね。お母様も犯人逮捕の報せを聞けば多少は機嫌が直ると思うわ」

 にこっとマノンが告げるのと、フェール公爵が震え上がるのは同時だった。

 なにしろ、フェール公爵夫人から「犯人は見つけたのか」と聞かれた際に「まだ捜索に取りかかっていない」と答えようものなら雷が落ちるのはわかりきっていたし、まったくなにも取りかかっていないのに「現在捜索中」と嘘をつこうものなら怒りの火に油を注ぐだけだ。妻の怒りが大炎上した場合、子供たちは誰も助けてくれないことを公爵は過去に何度も経験している。

「サムソン。現場検証の結果と犯人に関して現在わかっていることの報告をすぐにしろ。それから、犯人の捜索に割ける人員数と、温室の被害報告と、レアナのお気に入りの木が焼けてどうにもならないようなら新たに取り寄せる手配を!」

 のんびりと娘の婚約者いびりをしている場合ではないことを思い出したフェール公爵は、大慌てで自ら外套を脱ぎながら自分の執務室へと向かう。すでにジルベールの存在は忘れたのか、一言の断りもなくその場を去ってしまった。

「……相変わらず、嵐のような方だな」

 ジルベールは感心しながら、フェール公爵の荒々しい足音を聞いていた。羆が二足歩行をしたらあんな風だろう、と考える。

「騒々しいだけですよ。あら、そういえば結局王宮で何日もなにをしていたのか聞くのを忘れましたわ。まさかずっと陛下と喧嘩をしていたってことはないでしょうけれど」

 父の後を追って廊下を歩くサムソンを目で追いながら、マノンは首を傾げた。

「あぁ、そういえば、アルベリック殿下はまだいらっしゃるのかしら」

 サムソンがいなくなってしまったため、マノンは近くにいた従僕に尋ねた。

「いえ。お嬢様がお出かけになってすぐに、殿下は王宮にお戻りになりました」

「まぁ、そうなの」

 結局あの王子はなにをしに来たのだろう、と疑問を払拭できないまま、マノンは「わかったわ」と従僕に告げた。

「ジルベール殿下、フェール公爵令嬢! ご無事でしたか」

 屋敷の従僕からマノンたちの帰宅を知らされたのか、レオが二階にある客間から早足で出てきた。

「兄はご迷惑をおかけしませんでしたでしょうか?」

 真っ先にレオが心配したのは、マノンが連れて行くと主張したピエリックの所業だった。

ではなく、、なのね)

 それだけレオにとって兄は問題行動が多い存在なのだろう。

(レオ殿の様子を見る限り、リリアーヌが実はなよなよしていてぐずぐずめそめそしているような子ではないってことを知らないようね)

 ジンク伯爵邸で去り際にリリアーヌ・オランドと話をした際、リリアーヌの本性をレオは知らないと説明された。

 ピエリックも「こいつは普段はがっつり猫をかぶってるんだ」とぼやきながらリリアーヌの腕を掴んでいた。自分の手で捕まえておかないと、すぐに彼女はどこかに消えてしまうとでも思っているような様子だった。

(なぜトネール伯爵はリリアーヌとピエリック殿の婚約を解消しようとしないのかと思っていたけれど、あのふたりはあれで良いと言えば良いのでしょうね。もし婚約を解消すれば、リリアーヌは嫁き遅れどころか一生結婚しないかもしれないし、ピエリック殿はどうやらあの感じのリリアーヌが好きなようだし、ミヌレ伯爵にしてみればリリアーヌの性格よりも遺産の方が重要でしょうし、多分トネール伯爵はピエリック殿以外にリリアーヌの嫁ぎ先はないって思ってるんでしょうね)

 あれは適材適所と言うのだろう、とマノンは自分を納得させた。

 ここ数日はどうやってリリアーヌとピエリックの関係に変化をもたらすかに頭を悩ませていたが、弟子の心配をしなくて良いことが判明すると、肩の荷が下りた気分だ。

 一度引き受けたことは責任を持ってやり遂げなければならないという使命感が心の奥底にあるマノンは、リリアーヌと親しくなったときから、お節介だと言われてもリリアーヌが困っているのであれば手を差し伸べるべきではないかと考えていたのだ。

 本物のリリアーヌ・オランドは伯爵令嬢らしからぬ言動があるが、ピエリックになにか言われても平然と言い返しているし、言い負かしているところもある。多少自由人なところがあるようだし、自分のことが気に入らないならいつでも婚約解消しようとピエリックに言っていたが、別にピエリックを嫌っている様子はない。

 ただ、偽者のリリアーヌの存在は本物のリリアーヌも知っていたことには驚いた。偽者のリリアーヌは、以前から時折本物のリリアーヌに頼まれて茶話会や夜会にリリアーヌ・オランドとして出席していたらしい。その際、本物のリリアーヌから「適当に可愛らしい伯爵令嬢ぶっておいて」と頼まれ、偽者のリリアーヌであることに気づいたピエリックからは「なんでお前なんだ」とすぐに気づかれて罵倒されたため、婚約者に嫌われている可哀想な伯爵令嬢という演技が始まったらしい。

(偽者のリリアーヌがピエリック殿と婚約を解消したいと最初に言っていたのは、本物のリリアーヌが『婚約解消になってもかまわない』と言ったからなんでしょうね。でもその後、トネール伯爵から『婚約は継続すること』と注文が入ったものだから、婚約解消計画は延期になったってことでしょうね)

 驚くべきことに、偽者のトネール伯爵令嬢の存在はトネール伯爵公認だった。

「大丈夫よ」

 レオに、本物のリリアーヌ・オランドの存在について報せてあげたい気持ちはあったが、あのリリアーヌをどのように説明するべきかまだ自分の中でまとまっていなかったため、マノンは黙っていることにした。

 それはジルベールも同じだったらしく、複雑な表情を浮かべている。

「そうですか。安堵致しました。ところで、王宮から殿下宛ての手紙が届いています。陛下から、できるだけ急いで帰城するように、とのことです」

 レオは王家の封蝋が押された封筒をジルベールに差し出して告げる。

 開封済みであるのは、ジルベールへの個人的な内容ではないことがわかるような封筒だったからだろう。

「そうか。わかった。すぐに王宮に戻ろう」

 家出という名目でフェール公爵邸に滞在していたジルベールだが、国王の命令とあれば帰ることはやぶさかでないようだ。

「すぐに荷物を取って参ります」

 レオは一礼すると、速やかにジルベールが滞在していた客間へ荷物を取りに向かった。


 後に、フェール公爵邸の温室放火事件は、キーファー公国絡みではないことが判明した。

 犯人はフェール公爵に敵対する派閥の貴族で、公爵家の富の象徴のような温室がとにかく目障りだったから人を雇って温室に火を点けさせた、と逮捕後に語っている。

 犯人の尋問は半日とかからず、逮捕から自白するまでが早かったという。

 首謀者である貴族の男は、裁判で真っ青になって語った。

 自分を監獄の奥深くに閉じ込めて、フェール公爵の手の届かない場所に匿ってほしい、と。

 彼の希望は、裁判官たちによって叶えられた。

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