第50話 省庁再編などの律令制回帰と論功行賞
さて、後醍醐天皇の建武新政軍との決着も一応ついた。
まあ、親王を奉じた残党はまだあちこちに残ってるがな……。
大塔宮が今や今上帝というのも不思議では在るが、ようやく彼の望みの一つがかなったと考えていいだろう。
俺の望みの”とりあえず生き残ること”も叶いそうで何よりだ。
のんびり平和に暮らすことにはまだ遠そうだが。
「大塔宮……じゃなく今上陛下。
俺はそろそろ引退して河内の山奥でのんびり過ごしたいんですが
ダメですかね?」
今上陛下はいい笑顔で言った。
「何を言っている、もちろんダメに決まっているであろう。
まだ坂東も北陸も奥羽も静まっておらんのだぞ。
これからも朕のためにキリキリ働いてもらうから覚悟せよ」
やっぱりか、まあそうくるよな。
「了解いたしましたよ。
ところで争いの元凶の一つとも言える阿野廉子はどうしてるんですかね?
後醍醐上皇の随員には居なかったようですが」
「うむ、どうやら坂本で当時帝であった父上に譲位された恒良親王についていったようだ。
あくまでも騒乱を起こし続けたいようだ」
女狐めはまだ健在か、全く厄介なことだ。
とは言え、北陸朝廷は本来の後醍醐天皇が吉野に逃れて作った吉野朝廷ほどの影響は得られないだろうな。
三種の神器も帝位もこちらに譲られていると発表されているわけだし、官位を失った貴族が馳せ参じるなんて行動力もなかろう。
さて、俺達はこのところの騒乱で焼け野原になった京の都の治安回復や建築物の修復に取り掛かり、治安が回復され、ある程度建物を修復できたところで今までの功績に対しての論功行賞が発表された。
その前に守護は廃止され国司である守と守護が別在する場合は守護は権守相当となりそうでない場合は守のみが役職として残ることになった。
これは建武政権で守護と国司が両方並立されて統治が混乱したからだな。
一本化することにより命令系統を統一したわけだが、守護ではなく国司に統一したのは承久の乱以降の武士の朝廷支配からの脱却の表れでも在る。
さらに近畿・九州・中国と四国・北陸・関東・奥羽の区域に分けて鎮守府を構築し、建武政権では中央に権力を集中しすぎて事実上政務が回っていなかった地方などにある程度分権しそれぞれ統治を行うことにした。
これは建武政権での奥羽鎮守府のある程度の成功や逆に平安期の坂東の状況を鑑みたものだな。
あくまでも中央朝廷はその権威の上に立つという前提でおこなうわけだが。
また軍務と内務の省庁はっきり区別して、内務の省庁が軍務の省庁へ強く働きかけるのを禁じた。
建武政権の最後の方は軍務の素人の貴族の口出しが過ぎたからな。
また正式に尺貫法の度量衡の制定と政府公認の金座・銀座を設けて小判金・銀・銅の銭貨の鋳造を行い、銀銭1枚が銅銭10枚、金銭一枚が銀銭1枚で銅銭100枚、小判金一両が銅銭一貫となるように定め貨幣の流通を図った。
また今上帝は
ここにて一応持明院統と大覚寺統の争いも収まったといえるだろう。
まあ、持明院統も大覚寺統も途絶えたわけではないが。
さて肝心の論功行賞だ。
まずは俺だが……なんと正三位左近衛大将・近畿鎮守府将軍・検非違使別当・河内・摂津・和泉・壱岐・対馬守になってしまい、実質上の太宰府政権軍、改、元政権軍の軍部のナンバーワンにされ畿内及び京都の治安維持の役目もおうことになってしまった。
まあ、豊前、筑前、肥前守護の任はとかれたがな。
源氏でも平氏でも藤原氏でもない俺がこんな官位につくのは今までならありえないことで、貴族や皇族の血統のみが高い冠位につけるという旧来の慣習をぶち壊したわけだ。
まあ、これは後醍醐上皇がそういったことを先に行い、北条、足利といった武家の有力筋がほとんど滅び、無能でも有力な家柄の公家が官位を解かれたり、配流されたり処刑されて結果として既得権益層がかなり数が少なくなったから行えたことでは在る。
北畠親房や吉田定房などが居たら絶対に実現しなかっただろうな。
彼らは貴族の血統第一主義者だから。
「うむ、皆も納得しておるしこれからも励まれよ」
嬉しそうに万里小路藤房がいうが、俺はのんびりしたかったんだがな……。
こうなったら北陸や坂東も早く勢力下に入れて日本を平和にするしか無いわけか……。
まあ、わけのわからん命令を押し付けられる可能性は少なくなったが。
「やれやれ、どんどん忙しくなりますなぁ」
俺は愚痴ったが周りは羨ましそうに見てくるだけだ。
羨ましいならいつでも変わるぞ。
平安時代の名前だけ官位と違って、めちゃくちゃ忙しくて大変なんだからな。
平安時代以降の国司は京に居て現地に送った代官が任務を行えばいいだけの楽なお仕事だったが、国司と守護が合わさった今ではそんなことは許されず、ちゃんと現地で国を統治しなければならない。
俺の弟の正季も京都攻めやその前までの紀伊半島の維持の功績を認められ従五位下左馬頭・紀伊、伊勢・志摩・伊賀守となった。
畿内のうち播磨は赤松円心が播磨守・近江は佐々木道誉が近江守・土岐頼貞が美濃守となって山城と大和は天皇家の直轄領となった。
九州多々良浜で足利尊氏を迎えうった菊池武時は従四位下右近衛中将・九州鎮守府将軍・肥前・肥後守となって事実上九州の軍事のナンバーワンとなった。
もちろんこれは九州の幕府をひらいて独立したというわけではなく朝廷の下位の一機関に過ぎない。
四国では伊予の土井通増が従五位上左衛門佐、得能通綱が従五位上右衛門佐となった。
中国では最も早く挙兵した桜山慈俊に従五位上左兵衛佐の位が与えられた。
四国中国を統括する鎮守府将軍は山崎の戦いで先陣を努め勝利に導いた島津貞久がその任に付いた。
さて、京都で戦った新田義貞だが一度は敵になったとは言え朝廷への忠節を報いて正四位下左近衛中将・上野守・関東鎮守府将軍とされ関東の制圧を言い渡された。
「うむ、良かったですな、義貞殿」
「うむ、一度は敵対したわたしをこのように扱っていただくとは。
今上帝の心のお優しさには感謝しかござらん」
いや、まあ単純に関東に影響力のある人間が居ないと困るというのも在るんだがな。
新田義貞の弟脇屋義助は従五位下右馬頭・越前守・北陸鎮守府将軍とされた。
まあ、若狭には斯波家兼、越前には斯波高経がいるし畠山親房もそちらに行ってるはずでは在るが……。
「私にこのような大任を与えていただき感謝の極みです。
微力ながら全力を尽くす所存にございます」
新田兄弟には頑張って欲しいところだ。
無論俺たちも協力はするが、多分影響力ではこの二人のほうが強かろう。
奥羽鎮守府については今のところ空席と発表された。
北畠顕家が北畠具行の説得に応じてこちらについてくれるのを期待しているのだ。
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