第5話

「えっと、リュー?」


「静かにせよ」


 僕の抗議の声も押し込められて、むっとする。

 いくらなんでも、これはないんじゃないかな。

 かなり痛かったし、絶対血も出てる。


「もういいだろ?」


 涙目になりつつ、まだペロペロされてる手をぐいっと引っ張ると、今度はあっさり離れた。


「ほら、こんなに痛くて血も出て――ない」


 僕は自分の手をマジマジと見る。血は出てないけど、僕の左手は様変わりしていた。

 噛まれた薬指の根元に、赤い石のようなものがついていて、そこから黒い蔦のようなものが伸びている。

 クルクルと気まぐれのように伸びるラインは、手の甲を覆うと手首まで達していた。


「なにこれ?」


 出した声が掠れていて、思わずこほりと咳き込んだ。顔も熱を持っているみたいで、熱い。

 皇子は尋ねる僕の顔をじっと見た後、僕の目元に親指で触れた。目の端の涙を拭うと、髪に口元を埋める。

 空いた手が僕の髪に差し入れられて、ゆっくりと撫でた。


 皇子は僕のこと、嫌なんじゃないのかな。さっきも不機嫌そうだったのに、今はキツい視線を打ち消すような、むしろ好かれてるんじゃないかと、そう勘違いしてしまいそうなくらい、優しい手つきだ。

 なんだか気持ちよくて、うっとりと目を閉じると、耳元に吐息がかかった。途端にぞわりと、背筋が震える。


「まじないだ」


 低く、囁く声。かぷりと、唇が僕の耳朶を喰んだ。

 離れた吐息に目を上げると、青い瞳が僕を見ている。


「まじない?」


 皇子は懐から小箱を取り出して、中から小さな布切れを摘み上げた。

 僕の左手を手に取ると、すっぽりと被せる。指の部分のない、白の手袋だ。

 手首の上までの短いやつで、金糸の縫い取りがされている。もしかして皮製かな。


「いいか、風呂以外は外すなよ」


 さも当然のように言うけれど、少なくとも他にも手袋しない方がいい場所があるよね、トイレとか。


「じゃぁ、風呂とトイレ以外は外すな」


 一応譲歩は引き出せたらしい。譲歩とは。

 というか、そもそもなぜ僕が皇子の言葉に従うと思うんだよ。

 抗議の意味を含めて、じとりと睨んでやったというのに、皇子は満足そうに頷いている。僕の思いが伝わってないどころか、ひどく機嫌がいいようだ。


 目にも眩しい美貌がすぐ目のそば。眩しいことこの上ない。うぎゃぁ。

 溶ける。輝きに当てられて、溶けてしまいそうだ。闇よプリーズ!


「いい子だ」


 深淵に思いを馳せていると、皇子は僕の前髪をかき上げて、チュッと、額に唇を寄せてきた。

 なぜだろう。声音がいつもと違う。こう、ねっとり甘やかというか、ひたすらいいイケボが、背中にぞわっと来るというか。


 なんで今回に限って、皇子ってばこんなに距離が近いんだろう。もしかして九十九回目記念なら、ぜひ返品したい。

 そこで、はたと気づく。

 待って僕、色々同意した覚えないんだけど。


「リ――」


 反論しかけた僕の唇に、皇子の人差し指が当てられた。


「服を着替えて来るから、少し待っていろ」


 タイミングをずらされて、口ごもった僕を、丁寧に膝から下ろした皇子は、するりと僕の背中を撫でて立ち上がった。


「戻るまでに、カプツェのお代わりを淹れておけ。正式なやつでな」


 そう言って、部屋の奥にあった扉の向こうに消える。


「え?」


 あんなところに扉なんてあったんだ? でもどうして入り口から出て行かなかったんだろう。

 うーんって、考えてもさっぱり解らないな。

 とりあえず、いくらなんでもこの左手は酷い。なにやってくれちゃってんのか。帰ってきたら、文句を言ってやらないと。後、ベロンベロンに舐められた手も洗いたい。まぁ、猫――じゃなかった、豹だから、舐めるのはスキンシップなんだろうけど。


 大体、昔から皇子はこうなんだよな。

 僕が嫌だって言っても、自分がしたいようにするし。

 なのにギャビーも侍女さんたちも、皇子に優しくしてもらって、良かったですねと褒めそやす。だから調子に乗るんだと思う。


 ま、まぁ、楽しかったことも、ないことはなかった、けどさ。

 そう思いつつ、彼と僕の分のカプツェを淹れた。我ながら、僕も律儀なやつだよな。でもしばらく待っても、皇子は帰って来なかった。

 カプツェの淹れ方はいくつかあるのだけど、正式なのは面倒なのに。ぶーぶー。


 そういえば、安西たちはどうしてるかな。

 一緒にこちらに来た、友人のことを思い出す。

 召喚のされプロたる僕は、彼らがこの後どうなるのか知っている。

 勇者候補として召喚されたら、彼らはまず状況説明を聞く。それに納得した者たちは、適性検査を受けて、しばらく訓練に励むのだ。


 納得しない人はお城に残ることになるんだけど、せっかくもらったチートも使用禁止。異世界の知識を広めるのも禁止で、お世話役の人と一緒でないと、外にも行けない。


 勇者たちが帰って来るまで、特にやることがないから、次第に暇と自己嫌悪感に包まれてくる。みんな旅に出るのに、のうのうと残っている自分にだ。

 この世界では勇者はチートが使える上に、死んでも蘇生できる。ステータスオープンはないけれど、ゲームみたいだよね。


 死へのリスクが低いから、大抵の人は最初に残留を選んでも、後から旅に出たがるらしい。

 とはいえ、僕の場合は戻されたクチだから、旅に出れないんだけど。

 でも皇子が色々構って来るから、今まであんまり退屈に思う機会はなかったかも。皇子って、暇なのかな。


 一緒に遊ぶ。とはいっても、当初は今みたく暢気なものじゃなかった。

 同い年のせいか、それとも黒髪が珍しいのか、髪を引っ張られたり、頬をつねられたりと、結構酷くイジメられたのだ。


 まぁ、再召喚された時に謝罪されて和解はしたし、今はむしろ色々ものをくれたり、さっきみたいに進んでエスコートしてくれたりと、態度はともかく、こっちが戸惑うくらい親切だ。

 一度目とのあまりの変わり具合に、当時は本当に戸惑った。でも考えたら、仮にも彼は皇子である。


 二回目以降は、彼自身が召喚の指揮を執っていたし、遅まきながらオマケにも礼儀が大事だと気づいたんだろう。例えそれが、役立たずでも。

 とはいっても、そのせいでイマイチ素直に親切を受け入れられないんだよなぁ。もう十年も経つのに。


 皇子は皇子で礼儀正しくて紳士だったけど、いつもむっつりしていて、ちょっとよそよそしかったし。

 うん、なのに今回はどうしたんだろう。密着度激しすぎて、ちょっと着いていけない。まるで中身が別人みたいだ。


 できれば不機嫌でいいからさ、いつもの君でいて欲しいんだけどな。

 思い直して左手を見る。痛みはないけど、痛かった。これはイジメだイジメ。


『まじないだ』


 そう、言っていたけれど。

 まさかこれ呪いの印じゃないよね。

 そう思うと、自分の左手が、得体のしれないものに思えて来る。

 と、同時に、さっきまで膝の上で抱き締められていたことまで思い出して、今更ながら恥ずかしくて悶えてきた。


 皇子の声掠れていたな、なんていらない情報まで思い出すし。うわぁ。

 熱もこもっていて、熱かった。えぇぃ、考えるな僕。

 別になんてことは、ないけれど。

 やっぱり。


 ――やっぱり彼は苦手かもしれない。

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