第4話

 近くで見たら古そうな傷もあるけれど、どうやら怪我はしていないようだ。ヨシっ。

 僕はまた立ち上がって箒とチリトリで床を掃くと、ナプキンをフィンガーボウルの水で濡らして、皇子の傍らに膝をついた。ナプキンの先を丸めて、膝頭をポフポフと叩く。


「片付けなど、小間使いを呼べばいい」


 どうやら硬直が解けたらしい。頭の上でボソリと呟く声が聞こえる。


「人払いしてるし、僕が片付けた方が早いよ」


 濡れ布巾でズボンを叩いたけれど、茶色の染みは落ちる気配はない。


「それに、おう――リューが怪我したらいけないし。なんともないみたいで、良かった」


 ズボンの染みもそんなに大きくないから、中までは染みてなさそうだ。ホッと安堵して上を向くと、皇子がマジマジと僕を見ている。


「俺の心配をしているのか?」


「そりゃ当然だよ」


 なにを言ってるんだろうと思いつつ、染み取りに戻る。やはり白い生地はよく目立つ。


「リューこれ水じゃ落ちないみたいだよ。ギャビーを呼ぼうか」


「いらん」


 皇子は自分の隣をポンポンと手で叩いた。


「いいから座れ」


「ダメだよ、火傷してるかもしれないし、せめてズボンを脱いで」


「そなたは、それを下心なく言ってるのか?」


「下心? 別に追い剥ぎするつもりなんかないよ」


 だって皇子のウエスト、僕の倍はありそうだし、サイズも合わない。目を丸くしていると、腕を引っ張られ、膝の上に乗せられた。


「おっ、皇子!?」


「黙れ」


 ギロリと睨まれて、固まる僕。


 頭の上にピンと立つ耳は、ネコ科のものだ。

 長い尻尾が逃さないとばかりに、くるりと僕の脚に絡みついてきた。


「アオイ……」


 縦長の細い瞳孔が僕を見つめる。

 切れ長の眼は潤んでいて、なんだかちょっと熱っぽい。もしかして風邪かな。僕は眉を寄せて王子の顔を覗き込んだ。

 払い除けられるかな、と思いつつ、王子に手を伸ばす。特に振り払われることもなく、指が形の良い額の上に乗った。


 夜空を思わせる青い瞳が、僕をじっと見つめていて、なんだか居た堪れない気持ちになる。でもどうやら熱はなさそうだ。


「皇子、喉痛くない?」


「どちらかというと胸が痛いな」


「それは大変、やっぱりギャビーを――」


「すーわーれーと、言っておるだろ」


 首根っこを掴まれて、膝の上に引き戻される。ぐぇぇぇ。

 大人しく彼の隣に座らなかったからって、無理矢理膝の上は酷い。

 しかし昔から知ってる、幼馴染と言ってもいい相手にとはいえ、ちょっとこの体勢はどうかと思う。


「本当にそなたというやつは……」


「え、なんの話? 膝熱くない? 大丈夫?」


 皇子は顔を伏せると聞き取れないような小さな声で、ぶつぶつ呟いている。どうしたのかと思っていたら、ばっと顔を上げて僕を見た。


「おい、噛んでいいか?」


「えっ?」


 唐突に聞かれて目が丸くなる。


「いいと言え」


「いや、意味が解らないんだけど」


「言え」


「痛いのは嫌だ」


「噛んだら痛いに決まっているだろ」


「そりゃそうだけど」


「噛んでいいか?」


「えっ、でも」


「噛んでいいな?」


「痛いのは、ちょっと」


「善処する」


「や、優しくして」


「我慢しろ」


 そう言うなり、彼は僕の左手を掴むと、ガブリと指を噛んだ。うぎゃっ!


「痛っ!!」


 皇子ってば、なにが善処するだよ!? 犬歯が皮膚に刺さってるし、すっごく痛い。我慢なんて無理!!

 でも振り払おうとしても、皇子の手ががっしりと腕を掴んでいて、振り払うこともできない。膝から下りようにも、片足には尻尾が巻き付いていて、動きも封じられている。


 皇子酷い! 僕は君のことを信じて――はなかったな。昔から横暴で強引な俺様だった。ぎゃー!!

 まるで永遠のように長く続く痛みに悶えつつ、もう限界だと思った瞬間、不意に下腹の辺りに熱を感じた。そのまま身体中を、稲妻のような痺れが駆け抜ける。


「……っ! ぁ……」


 びくんっと、身体が跳ね、はぁっ、……と、無意識に熱がこもった吐息が漏れた。じんわりと身体の中、温かな余韻が広がっていく。

 痛みよりも、痺れるような熱に耐えきれず、皇子に身体を預けた。固い胸板は逞しく僕を受け止めて、腰に回された右腕に力がこもるのを感じる。


 静かな室内に響くのは、僕の吐息と、時折り零れるうめき声。トクトクと、寄せた耳から聞こえる鼓動。

 酷いことをされているのに、優しく抱き締める力強い腕に、なんだか安堵する。ここが、僕の場所なのだと、ゆっくりと撫でる手が教えてくれる。


 どれほど経ったのか、やがて指からの熱が去り、代わりに優しく温かいものに包まれた。

 ぺちゃり、と、柔らかな塊が指をなぞる。

 皇子が僕の指を口に含んだ。音を立てて、ぺちやぺちゃと、指に舌を絡めてくる。


 涙目になっている僕の指を、皇子はねぶるように舐めてゆく。今度は背筋がゾワゾワしてきた。引き剥がそうとしても、すごい力でやっぱり剥がれない。くそぉ。

 胸板固いもんな。きっと腹筋もバキバキに割れてて、僕の力じゃ到底太刀打ちできないんだろう。


「あっ、あの……」


 呼びながら見上げると、皇子は僕の指を舐めながら、じっと僕の顔を見ていた。猛禽類のような、獲物を見定めるような鋭い視線に、ぞわりと背筋が凍る。

 なぜだろう。僕は彼に、こんなキツい眼差しで睨まれるほど、恨まれるようなことをしたんだろうか。


 確かに彼のことはちょっと苦手だけれど、憎んではいない。しょっちゅう顔を合わせる腐れ縁だし、世話になってるし、それなりに仲良くできたら、という気持ちはあるのに。


 せめてもと、負けじと睨み返してやる。

 チュッ。

 やがて散々指を舐めて満足したのだろうか。仕上げとばかりに、皇子は僕の指先に口づけを落とした。

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