第142話 妹と妹と兄と姉⑨
ぼうっとスライダーの出口を眺めていると、それまでずっと規則的に乱れることなく流れていた水に乱れが生じた。
そろそろ陽菜乃が登場する。
その証拠に、スライダーの奥から「ひゃああ」という遠い声が響いてきていた。
ななちゃんもそれが陽菜乃の声であることに気づいたらしく、プールサイドに座っていたななちゃんは立ち上がる。
「あんまり近づくと危ないよ」
「んー」
不満げな声を漏らすななちゃんに、俺もついていく。出口のところまで行かなければ大丈夫かな。
放っておくと行ってしまいそうなので、ななちゃんが乗っている浮き輪を放さないように気をつける。
ちゃぷ、ちゃぷ、と少しだけプールに入って歩いた俺たちは、危険が及ばないであろう場所で待つことにした。
次の瞬間。
バッシャーンッッッ!!!!!!
スライダーから勢いよく人が飛び出てきた。それはあまりにも一瞬のことで、俺もななちゃんも驚くことさえできなかった。
ぽかーん、と射出された人影を眺めていることしかできなかったわけだけど、ザバっと水から顔を出したところで、それが陽菜乃であることを確信する。
「ぷはっ」
顔についた水滴を手で拭き取り、俺たちの方を見た陽菜乃は恥ずかしそうにへらっと笑った。
結構大きな声で叫んでいたから、それを思い出していたのかも。
「想像よりずっと速くて驚いちゃった」
ゆっくりとこちらに歩いて来る陽菜乃はそんなことを言う。
「そこら辺のジェットコースターより怖いと思うんだよね」
「たしかに」
楽しかったけどね、と陽菜乃は付け足した。
そんなことを話していると、スライダーの奥の方からまた声が聞こえてくる。
順番から考えて、恐らく梨子だろう。
「おねーちゃん、だいじょーぶ?」
「だいじょうぶだよ」
「ななものりたい!」
「……ななにはまだ早いかな。あっちに子ども用のスライダーあるから、それにしよ?」
怖いもの知らずなななちゃんは陽菜乃の提案にむうっと不満げな顔をした。
この年齢でこのスライダーを恐れないとは度胸あるなあ、と俺は言葉なく感心してしまう。
そんな二人を見ていると、スライダーから出てくる水の出方が変わる。もうすぐ梨子が出てくるだろう。
そう思った次の瞬間だ。
バッシャーンッッッッッ!!!!!!!!!!!
こういうのは着水の仕方や、そもそも体勢なんかでスピードも勢いも変わってくる。
スライダーから飛び出してきた梨子は陽菜乃のときよりも勢いが強く、爆発でもしたのかと思うような着水を見せた。
俺ならば気を失っていたかもしれない。
が。
当の梨子はと言うと。
「ぷはっ! あー、楽しかったぁ!」
水から顔を出し、ご満悦な様子だ。
真夏に汗かきまくったあとに風呂入ったとき、俺はあんな顔してるかもしれない。
そんなのんきなことを考えていたのだが、俺は驚きの光景を目の当たりにする。
「お、おい梨子!」
思わず声を出すと、陽菜乃もそれに気づく。
「梨子ちゃん、前! まえ!」
「まえ?」
きょとんとする梨子に俺が言葉を加える。
「水着」
「はえ?」
ゆっくりと視線を落として自分の胸元に見た梨子は、ようやく自分の陥っている状態に気づく。
つまりどういうことかというと、スライダーから飛び出てきた勢いで梨子の水着がほどけてしまったのだ。
いわゆる、ポロリである。
真っ白で、ぷっくら膨らんだ胸が露出していたが梨子は慌てて手で隠し水の中に浸かる。
「人がいないのが幸いだったな」
「ばかッ! お兄も見んなっ!」
顔を真っ赤にして訴えかけてくるが、そんなこと言われてももう遅い。
「もう遅いよ。はっきりお前の成長を実感しちまった」
「あほ! すけべっ! 変態ッ! とにかく見るなぁぁぁあああああ!!!」
「そんな声出すと人が来るぞ!?」
「隆之くん、今のはひどいよ。あと、とりあえずいったん後ろ向こっか!」
妹の裸を見て何かを思う兄はいない。
そもそも、家で風呂上がりにバスタオル一枚でウロウロしたりするのに、ここでは見るなというのもよくわからん。
けど、一番よくわからないのは乙女心というか、やっぱり妹心である。
*
夕方。
日が沈み始め、少しずつ世界は夜になるための準備を始める。
朝から遊びっぱなしだったこともあり疲れたようで、帰りの電車の中ではななちゃんは陽菜乃の膝の上でぐっすりだった。
「すぅ、すぅ」
そして、梨子もまた俺の肩に頭を乗せて寝息を立てている。そんな梨子を見て、陽菜乃はふふっと温かい笑みを浮かべた。
「よく寝てるね」
「朝からはしゃぎっぱなしだったから。隠してたつもりだろうけど、昨日の夜からうきうきしてたんだ」
ふとしたときには鼻歌を口ずさみ、歩く足取りは軽く、話す声色はいつもより弾んでいた。
梨子は分かりやすいからなあ。あれで隠してるつもりなんだから、おかしい話だ。
「そうなの? だとしたら、楽しんでくれたならよかったよ」
「この夏はずっと勉強続きだったから、ストレスも溜まってたんだろうな。いい息抜きだったんじゃないか」
「隆之くん。梨子ちゃんの前ではちゃんとお兄ちゃんなんだね」
からかうように、けれど梨子やななちゃんを起こさないようボリュームは落として陽菜乃は言う。
「そうか?」
「うん。普段わたしといるときとか、樋渡くんといるときとか、くるみちゃんといるときともちょっとちがう。今日はずっとお兄ちゃんだったよ」
俺としてはそこまで変わったつもりはないんだけど。そういうのは自分より周りの方が感じたりするものだし、陽菜乃が言うならそうなんだろう。
それに、俺だってなんとなくそれは感じていたことだ。今日というよりは、これまでもずっと。
「それを言うなら、陽菜乃だってななちゃんの前ではお姉ちゃんっぽいけどね」
俺にとって梨子は妹で。だから俺は梨子の兄だ。誰といようと、どこであろうと、そこに梨子がいるならば、俺は梨子の兄としてそこにいるんだと思う。
陽菜乃もそれはきっと同じで。
それが兄妹なんだろうな。
すぅすぅ、と気持ちよさそうに寝ている梨子を見ながらそんなことを思った。
しかし、起こさないようにするには動かない方がいいと思うんだけど、結構疲れるな。いつまで保つだろ。
そのとき、ぴこんと音が鳴り、陽菜乃がスマホを取り出す。
「あ、梓からだ」
どうやら最近忙しいらしい秋名からの連絡だそうだ。この二人は普段から連絡とか取り合ってるのかね。
こういうとき、「なんて?」とか訊いていいのか悩む。というか、訊くべきなのか悩む。
わざわざ秋名からだと言ってくるということはそれを求めているのか。でも二人のやり取りを知ろうとする感じちょっとキモくない?
分からん。
今日は分からんことだらけだ。
いや、それはいつもだった。
「なんか、ようやくやること終わったんだって」
「なんか忙しそうにしてたやつ?」
「うん」
メッセージには記念撮影なのか、ピースしている自撮り写真も添えられていた。
目の下にはくまがあり、顔に精気はなかった。よほど無理をしていたらしいが、表情は清々しい。
一緒に写っているのは漫画の原稿だろうか。そういえば秋名って漫研だったもんな。
ということは部活動の一環か。
「大変なんだな、漫研って」
そんな秋名から俺に連絡が来たのは、このときから四日後のことである。
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