第141話 妹と妹と兄と姉⑧


 ああ、しまった。


 そう思ったのは、口からその言葉がこぼれ出たすぐあとだった。


 妹に「兄のこと好きなんですか?」とか訊かれて、「はいそうです」って答えるはずないし、そもそも良い気だってしないはずだ。


 あたしは慌てて否定しようとしたけど、上手く言葉が出てこなくて「あ、や、えと」とわかりやすくテンパってしまう。


 けれど。


 そんなあたしを見て、陽菜乃さんは気を害したように不機嫌になるでもなく、うざったそうに眉をひそめるでもなく、ただただ何でもないように笑っていた。


 そして。

 

「そうだよ」


 と、短く口にして。


 次の瞬間には、さっきみたいに頬を赤くしてはにかんだ。


 恋する女の子の顔に、あたしはそれが本当のことなんだと実感する。


「わたしね、梨子ちゃんのお兄さんが好きなんだ。でもね、まだ伝えてないからこのことは言わないでね?」


 きゅっとあたしの手を握った陽菜乃さんの手は温かくて、なんだか心地良い。

 同じ女のはずなのに、別の生き物のように思えてしまう。


 それくらいに魅力的な人が、なんでお兄のことを好きになったんだろう。


 お兄は妹のあたしが言うのもなんだけど、別に良い男って感じではない。


 たしかに顔は整ってる方かもしれないし、ときどき優しかったりする。けど、やっぱり男らしさとかそういうのとはちょっと無縁な気がする。


「お兄のどこが好きなんですか?」


 あたしが尋ねると、陽菜乃さんは「え、そうだなぁ」と一瞬驚いたような顔をしたあとにううんと唸って悩んでくれた。


「いろいろとあるんだけど、やっぱり一番はかな」


「優しい……?」


 たぶん、あたしの見ているお兄の優しさと、陽菜乃さんの見ているお兄の優しさは違うんだろうな。


 それがちょっと悔しくて、さみしくて、でもちょっぴり誇らしい。


「お兄さんにとってはね、人に優しくすることは当たり前なんだよ。それって誰もができているようで、誰にでもできるようで、意外とそんなことないんだよ?」


「お兄はそれができてるんですか?」


 あたしが訊くと、陽菜乃さんは自分のことでもないのに誇らしげに「うん」と頷いた。


「それにカッコいいところもあるんだ」


「ほんとですか?」


 お兄がカッコいい?

 それはどうなんだろうか、と思ったけれどあたしがお兄のことをカッコいいと思っていたら、それはもう正真正銘言い訳のできないブラコンだ。


 あたしはブラコンじゃないから、お兄がカッコいいと思わないのは正常だな、うん。


「ほんとだよ。うまく言葉にできる自信がないから、教えてはあげられないけどね」


 そう言った陽菜乃さんはいたずらに笑う。


 そんな話をしている間に、列はずいぶんと進んでいて、ふと上を見上げたら頂上が見えるところまで来ていた。


 あともう少ししたら順番が回ってくるかもしれない。


「わたしも一つ訊いてもいいかな?」


「なんですか?」


 あたしばかり訊いてばかりなのも悪いので、そういうことなら何でも答えようと思う。


 もちろん、あたしの分かる範囲でだけど。


「梨子ちゃんのお兄さんって、彼女とかいたこと……あるのかな?」


 いたことはないと思うけど好きな人はいたっぽい。わかりやすくはしゃいでいた時期があった。


「あたしが知る限り、彼女はいなかったと思いますけど……」

 

 あれはいつだったろう。

 たしか、中学三年生のときだ。


 同じ学校に兄妹で通うと、どうしても兄の話題が耳に入ってくる。良いことも悪いことも、聞きたいことも聞きたくないことも。

 こっちの意思なんてお構いなしに無理やりに知らされる。


『そういえば、梨子ちゃんのお兄さん。この前女の人と一緒に歩いてたよ』


『へえ』


『なんかね、すごい楽しそうだった。彼女とかかな?』


『さあ』


 お兄は良くも悪くも態度に出る分かりやすさがある。彼女なんてできたら隠そうとしても漏れ出てしまうに違いない。


 だから、彼女ではなかっただろうけど、度々その話題を聞くことがあり、家での態度もあって、なんとなく好きな人でもいるんだろうなって思ってた。


「けど?」


「好きな人はいたと思います」


 そのときのことを思い出すと、どうしても暗い気持ちになってしまう。


 お兄が恋をしたことが問題なんじゃなくて。


 その恋が実らなかったことが問題でもなくて。


 なんていうか、詳しくは知らないんだけど、たぶん良くない形でその恋が終わってしまったっぽくて。


 一時期、といっても数日程度だけど、お兄はまるで魂が抜かれたような状態だったことがある。


「失恋でもしたのか、抜け殻みたいになって過ごしてたときはうざかったですね」


 あはは、とあたしは下手くそに笑う。面白くもなんともないのに笑えないよ。


「失恋……?」


「たぶん、ですけどね。兄妹で恋バナなんてしないし、詳しくは知らないんです。ただ、噂によると、ちょっとだけ可哀想な目に遭ったとか」


 ほんとうに情報が回るのは一瞬で、校内にプライバシーというものはないんだなと実感した。


 お兄はその好きな人を呼び出して。


 告白をしたけれど振られて。


 それだけならよかった……こともないけど、追い打ちをかけるようにひどい目に遭った。


「それは?」


 ただ、それをあたしの口から陽菜乃さんに伝えるのはちがうと思う。

 そもそも、お兄はあたしがこの話を知っていること自体を知らないだろうから。


「それは、お兄の口から聞いてください。今でも気にしてるのかはわかんないですけど、そのときは結構ショック受けてたし、たぶんあたしが言っていいことじゃないと思うから」


 それに。


 陽菜乃さんになら、お兄はきっと話すだろう。


 恋人じゃないにしても、特別ではないとしても、お兄の中で陽菜乃さんの存在が大きいのはこれまでのことから推測できる。


 もしお兄があのときのことが原因で、恋愛とかに対して苦手意識を持っているとしたら。


 そんなお兄を救い出せるのは、やっぱり女の子だ。そんなトラウマお構いなしに好きになってしまうくらいに魅力的な人。


 お兄に彼女ができるのは、ちょっとだけ寂しい気持ちもあるけれど。


 その相手が陽菜乃さんならいいなって。


 この人と話していて、そう思った。

 

「あ、もう順番ですよ」


 あたしは少しだけ暗くなった空気を変えようとして、努めて明るい口調でそう言った。

 

「ほんとだね。いろいろ話してたらあっという間だったよ」


 陽菜乃さんもそれを感じてか、これまでの空気を払うように太陽のような笑みを浮かべる。


「そうですね」


 話したことはお兄のことばかりだったような気もするけど。それは仕方のないことかな。


 次はもっと、なんでもない話ができるといいな。



 *



「あれか」


 スライダーのゴール地点となるプールで二人の姿を探していた俺は、まもなく出発するであろう二人を見つけた。


 ななちゃんと一緒に二人の到着を待つ。スライダーの出口の水の出方が少し変わる。これはまもなく人が出てくる合図だと勝手に思ってる。


 案の定、バッシャーン! と勢いよく人が飛び出てくる。

 

 改めて確認したところ、この大きなスライダーは二人乗りのボートに乗って下るタイプと、一人で滑っていくタイプの二種類がある。


 一度目は梨子とボートに乗り、二度目は一人ずつ滑るスライダーをプレイしたわけだが、今回は一人ずつ降りてくるタイプを選んだらしい。


「沙苗! 水着ズレてるズレてる!」


 スライダーから出てきた女性にそんなことを言いながら駆け寄る友達。そんなこと言われたら見たくなるじゃない。


 まあ、ななちゃんもいる手前、そんなことはしませんが。


 きゃっきゃしながらその女性グループが退散し、このプールには俺とななちゃんだけになる。


 静かだ。


 だから、スライダーのどこかから「きゃああー」という陽菜乃の楽しげな声が聞こえてきた。


「お姉ちゃん、もうすぐそこから出てくるよ」


「うんーっ」

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