第228話 その香り

 両腕を広げて走りよってくるいぶ。

 俺はポカンとそれを見守ってしまう。そのまま全速力で俺に抱きつくと、いぶの勢いで俺は押し倒されてしまう。


「ぅえっ」


 思わず俺は変な声をあげてしまう。倒れこんだ俺の背中を地面の柔かな草が受け止める。


「そのまま、伏せてっ!」


 遅れて聞こえてきたいぶの声。それは、切羽詰まっていた。


 気がつけば、俺の周囲から雪が消えていた。

 俺をかばうように覆い被さったいぶの肩越しに、何か白い巨大なものが見える。

 消えた雪が、一つに集まっていたのだ。それはウニのような不思議な形になっていて、そこから一本の鋭い氷のトゲがつき出されている。


 そのトゲの先端が、俺をかばったいぶの背中を抉るように通過したところだった。


「偉大なる、御方……ゆし、ちゃん……。鼻の使い方は、こう、だよ──」


 俺に抱きついているいぶが、そんなことを言いながらそっと片手で、俺の鼻に触れる。血なまぐさい、しかしどこか懐かしい臭いが俺の鼻先をくすぐる。


 そして俺は理解した。


 ユシのキャラを、俺は十全に使いこなせていなかったことに。どこか、人間の時のままの感覚でいたのだ。

 そう、これまでは、ユシの鼻が捉えた情報を自ら無意識に制限していたことに、いぶは自らの血をもって示してくれた。


 あのままだったらあの氷のトゲに抉られていたのは、その敵の存在に臭いで気ずけなかった、俺だっただろう。


 いぶ越しに集まっている目の前の雪の塊から、真の悪臭が漂ってくる。

 これまでこのエリアに広く分散してエリア全体を汚染するように香っていたその臭いが、今なら手に取るようにわかる。


 それと同時に、俺の鼻先に付着したいぶの血から感じられる。愛情と献身の香りだ。

 わずか三代しか経っていないが、いぶとあだむが生まれてからのコボルドの歴史の香りもそこには含まれている。

 ユシにはそれをかぎ分ける鼻が備わっていたのだ。


 そして今、俺はユシとしてそのすべてを受け取った。

 急速に冷たくなっていくいぶの体を、そっと地面に横たえると、俺は目の前の敵を凝視したまま立ち上がる。


「お前、因果律か」


 ポロリとそんな言葉が自然に口をつく。ただ、ユシの鼻が感じたままに、俺は手にした新聞紙ソードをもって目の前の敵へと躍りかかるのだった。

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