論理の基本

 ここでは論理の基本を説明しよう。

 実はこれは物語の組み立て、テーマの組み立ての方法でもある。

 内容は難解だが、ぜひ最後まで読み進めて欲しい。


 論理とは定義すると議論の筋立てであり、物事の法則的なつながりのことだ。

 まったく意味がわからないと思うので、もう少し砕いた言い方をしよう。


 論理とは「AとはBである」この構造そのものだ。

 例えば――「クジラは哺乳類である」という文章。

 このクジラと哺乳類をつなげる行為・構造、これが論理だ。


 小説とは、仮想の世界や人物を描く。

 これは作者が読者に対して、文章を通して行う。

 作者は読者を説得して、さらに納得してもらわないといけない。


 それに使うのが論理だ。


 おいまて、なぜ小説に論理など必要なんだ。小説とは、面白おかしく、好き勝手に書けばいいだけではないのか? 当然、そういった疑問があると思う。

 しかし、純然なエンタメであっても、この小難しい「論理」は必要なのだ。


 それは何故か?

 ――これはあからさまなウソだ。とても信じられない。

 そうなると、読み手の心が文章から離れるからだ。


 論理の必要性は実用的な文章に限られると思うだろうが、実はそうではない。


 主人公の経験、感情も論証の一部であり、信じられるものなのだ。

 そこに論理がない場合、例えエンタメ作品でも評価はさがる。


 例えば……桃太郎はどうだろう?

 あなたは桃太郎が猿、キジ、犬を連れて行くのは非論理的だとおもうだろうか。

 

 確かに、桃太郎はミカドに会いに行き、侍たちを引き連れ、鬼ヶ島に行くの方がずっと論理的に見える。


 だが、猿、キジ、犬を連れて行くのは、別に間違ったことをしていない。 

 桃太郎が「鬼討伐のために仲間を集める」という構造自体は正しいからだ。


 これが「桃太郎は都の人たちを助けるために慈善団体を創始する」となったら、かなり話としては雲行きが怪しくなる。桃太郎が賢さを披露するとなお不味い。


 なぜか? 桃から生まれた桃太郎は、子供のころから大人顔負けの力を持っていたという描写があるからだ。

 この部分の扱いはどうなる? すべて※無駄な描写ではないか。


※無駄な描写:1983年に講談社から初版が刊行された楠山正雄の『日本の神話と十大昔話』内に収録されている桃太郎には、桃太郎が超人的な力を持っていることがしっかりと書かれているが、現代の後の版(主に絵本)ではこの描写が消えているものもある。


 ここでいう論理とは、そういった類の論理だ。


 物語の論理は読み手を説得するためにある。現実で科学、哲学に使われている命題証明のための論理とは、その目的を異にすることを注意して欲しい。


 くどいくらい言っているが、物語とは、文章で読み手を説得している。

 その基本は「強い論証」と「弱い論証」を併用することにある。


 強い論証とは演繹えんえきだ。

 弱い論証とは推測を指す。


 ずいぶん理屈っぽくなったが、話はそう難しくない。

 段落の時点で何度か、主張をそれを補強する文章について指摘したが、それらの性質の違いについて語っているだけだ。


 演繹とは、法則や原理のように確実度が高くて、それ以外はありえないものだ。

 例えば――「クジラは哺乳類である」これが演繹だ。


 他方、推測はそれよりは確実度が劣る。

 個人の経験や、限られた世界の観測で得られたデータをもとにしたものだ。

 ――「弾いたコインが3回表、次こそは裏が来る」といったものだ。

 


 前者は100%確実。後者は80%から50%。

 人生をかけてフルブッパするには危ない根拠だ。


 つまり、論理を使った説得は、「法則」と「感想」を使った2種類があるということだ。前者は疑いようがなく、後者は可能性や「問い」を残すのがポイントだ。


 強い論証、弱い論証、言い換えれば演繹と推測(帰納)だが、これについてもう少し掘り下げてみよう。


 演繹を使って結論を引き出す方法、演繹法というものがある。

 小説に限って話をすると――例えば世界観、魔法のある世界。こういった与えられた確実な前提から出発して、結論となる何かを引き出す。


 これはあくまでも「仕組み」なので、前提が変わっても別の話(別の説得と言ってもいいだろう)に使い回せる。流れとしては以下のようになる。

 

① 法則・基準を述べる。(この世界には魔法がある)

② ある事実を述べる。(水魔法が存在する)

③ その事実が基準に合致するかどうかを示す。(川は魔法なのか? 海は?)


 この論理からは与えられた前提以外の答えは出ない。

 魔法なのか、それ以外なのか? その前提がその世界での普遍的なものであれば、この論理は一般的なもの・世界から個別のものを前提から判断する。


 演繹は絞り込むだけであり、(その世界において)突飛な結論は出て来ない。

 先の例で言えば、生命それ自体が魔法現象なのだ。この世界の全ては魔法的なものだ。だからこの世界に生きる人間も生物などではなく、魔法現象である。この結論はかなり突飛だが、前提として存在する「この世界には魔法がある」ことをどうこうすることはない。


 これが演繹法だ。一方、帰納法はどうだろう。

 

 帰納法は個々の事例をり集めて縄にして、一般的な結論を出す論理だ。

 個別の事例を集め、共通点を見出す。一言で言えば「流れを読む」のだ。

 帰納法の思考過程は以下のようになる。


① 複数のデータを集める。

② データから共通性を見出す。

③ 共通性を解釈し、一般的と思われる結論を出す。


 先の演繹法は、「法則」を意外な対象に適用する。

 気づかれなかった対象に光が当たり、そこに面白さが生まれる。


「この世界は魔法によって成り立っている。その世界の一部、人間は?」


 帰納法は「経験」を「解釈」することで新しい視点と結論を得る。与えられた現実から、新しい何かを見出す。そこには既存のものを飛び越す、飛躍がある。


 魔法でケガ人を治療できる。

 人が魔法を通さず自らの手で作った機械、道具は治療できない。

 魔法的なものは魔法で治療できる。

 そこで「人間は魔法的なモノである」という結論に達するわけだ。


 これが小説に使う論理、ウソを本当らしく、それっぽくするための方法だ。

 この文章がなにかの役に立てば幸いだ。

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