第30話 Day4:5/10【医療室】
石黒の話を聞いても動揺を見せなかった気丈な翠だったが、赤城の怪我を目の当たりにすると顔色を変えた。
「これは…」
「なぁ、治るか?」
赤城は傍に寄って見ていた翠の体操服を左の手で掴んで引き寄せた。
「…無理だ。私は医者じゃない。これほどの怪我は治療できない」
翠は言いにくそうに赤城に告げる。赤城の指は感染して膨れ上がり、すでに壊疽を起こしていた。戦場での任務を経験したことのある石黒も、手足に治癒不可能な傷を負った兵士がどんな処置をするべきかは知っていた。
「んなこたぁ、わかってんだよ。手の半分以上が死んでるから、手首ごと切断しねぇと俺も死ぬ。お前らの技術で、神経も含めて元通り機能する手が再生できるのか答えろ」
翠が「再生…」と鸚鵡返しで呟くと、赤城は乱暴に翠の顎を掴んだ。
「どんなものにも変化できる細胞があるんだろ?何年か前に和邇士郎がそれで腎臓だか肝臓だかを作って移植したって話だ。SANDORAなら死者すらも蘇らせるってな」
「…ES細胞の移植か!?そんなことまでしているのか、あの男は…」
「おい、答えろ!俺は出来るか出来ないか聞いてんだよ!」
翠は答えるのを躊躇した様子で、唇を噛んで黙り込んだ。
「出来るってことだな」
「やってはならない」
「は?何言ってんだ?」
翠は今までになく昏い目をしていた。
「それは命を代償とする
ES細胞は人として誕生することのできるはずの受精卵であり、それを利用することは命を利用することに直結する。翠はぽつりぽつりと言葉を返す。
「拒否反応が起こることもある。生まれていないとはいえ、ヒトになることの出来る大切な命を利用するわけにはいかない」
「お前がいりゃ、遺伝子操作で拒否反応を起こさねぇ細胞が作れんだろ。女も卵子もいくらでも用意できる。受精卵ならいくらでも持ってきてやる」
「私はしない!そんなことに手は貸さない!」
「俺を見捨てるっていうのか?」
「それは…」
翠は泣きそうな顔をした。
「手をなくしても命まではなくならない。片手で…生き抜いてくれないか…?」
赤城は舌打ちして、翠を
「
翠は怯えた顔で目を逸らす。翠の理想論はアンダーグラウンドで生きる赤城には通用しない。赤城は舌舐めずりする肉食獣のような表情を見せた。
「いいだろう。そこまで言うなら、失くす手の代わりにお前が俺の手になるなら片手で我慢してやる。俺のものになると誓え。一生だ。お前の全部を
「それは…そんなことできない…」
翠は助けを求めて
「
「
赤城は面白くなさそうに呟くと、顔を
「
赤城の指は腫れ上がって変色し、赤黒い芋虫のようになっていた。それは直視できない程に痛ましかった。
「…もう、痛み止めじゃ駄目だ、烈。切ろう。急いだ方がいい。死にたいの?」
「
赤城は諦めたようにため息をつく。
「翠ちゃん、白石を頼むよ。僕達、電気が止まる前に
翠に伝えると、翠は青ざめた顔で頷き、医療室まで一緒について来た。器材を消毒する消毒液、ガーゼと包帯、局所麻酔薬や抗生剤の軟膏等をメディカルバッグに詰めて、石黒の肩に掛けてくれた。
「翠ちゃん、戻ったらすぐに止血と感染予防の処置をお願いしたいんだけど…大丈夫?」
「…任せろ。用意しとく」
翠は小さな声だがしっかりと答えてくれた。
石黒は武器がパイプ槍しかなく、途中で茉白に襲われることを心配していたが、翠の反応は逆で「途中で出会ったら、二人にも暁ワクチンを打ってくれ」と、注射器が2本入った保冷ケースを差し出した。残りも念のために、液体窒素容器に保存してあるという。その無邪気な
…朱音が生きているという希望を捨てない。そして、自分に害をなすかもしれない赤城も、草野を殺し、赤城の手を奪った茉白も
等しく公平で迷わない。どの命も守るべきもの。ただそれだけ。翠は呆れるほどに愚直だった。
「翠ちゃんてさ、ポジティブだよね」
「私が?【どんな時も希望を忘れずポジティブに行きたいね】と言ったのは石黒だ」
「そうだっけ?」
「忘れてたのか?注射は打てたらでいい。とにかく無事に帰って来い。待ってるぞ」
「了解。必ず戻る」
背後で赤城が「
機関制御室に着き、必然的に葵衣と青山の無惨な遺体も確認することになったが、石黒にできることは手を合わせることだけだった。
赤城は右手首から先を失った。パイプ槍を切断した
そして、幸いと言うか残念と言うべきか、機関室までの行き帰りに茉白は現れなかった。
トイレエレベーターで研究室に着くと、翠も白石もおらず、【医療室にいる】というメモが作業台に貼り付けてあった。そのまま、赤城と共に医療室に向かうと顔色の悪い白石が脇にも氷枕を入れられて、ベッドに寝かされている。
「白石、どうしたの?」
石黒が尋ねると、翠は小さな声で答えた。
「熱が高い…」
翠は浮かない顔で白石を見つめている。
「ワクチンの副反応でこんな高熱はあり得ない。もしかしたら…白石は…」
「副反応じゃなかったら、何の熱?」
翠は震える声で「暁ウィルス…」と、答えた。
「何が起きている可能性があるの?」
「白石は【不夜病ではなかった】かもしれない。すでに感染して治癒していたか、不夜病ワクチンを接種して抗体ができていたか。つまり、拮抗すべき【ウィルスが皆無】の状態で、暁ウィルスを体内に入れてしまった…」
「え…」
「この発症のスピードからすると、オリジナルではない。暁ウィルスだとしか思えない」
それは、出血熱を起こすフィロウィルスの遺伝子組換えウィルスによる病が発症したということだ。遺伝子改変による未知のウィルス。翠は「臨床試験も動物実験ですらも試してないから、どういった症状が出るかはわからない。既往や年齢、体力によっては命を落とすことが絶対にないとは言えない」と、朱音を怯えさせたことがあった。
「疑わしい点はいくつもあったんだ。白石に不夜病の症状が全くないことに留意すべきだった…私は…何ということを…」
翠は顔色を失い、両手はブルブル震えていた。命の価値を重んずる翠は命を脅かすことに対しても敏感なようだった。
「白石に注射したのは僕だ。この事態を引き起こしたのは君だけじゃない。翠ちゃん、赤城の手当て頼んでいい?白石は僕がみとくよ」
後ろでそれまでのやり取りを見守っていた赤城に目で訴えると、赤城は頷いて了承してくれたようだった。「おーい、
その晩、白石成道は息を引き取った。
白石は熱に浮かされながらも何度も「翠ちゃんを信じる。石黒を信じる。希望は捨てない」と、言った。
しかし、翠が遺伝子操作したウィルスの増殖スピードは想像以上に早く、病状は瞬く間に悪化し、内臓からの出血が起こると、もう手の施しようがなかった。
…君は強かったんだな、白石。船で何が起こったかは聞かなかったけど、最後まで希望を捨てなかったじゃないか。僕にとっては…君こそが…
もう目を開けることも話すこともなくなった固く冷たい顔を撫でていると、溢れた涙がポタポタと滴り落ち、白石の頬を濡らす。嗚咽を
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