第26話 俺は他の奴らより旨いぜ【2Fプールデッキ】
暗い4階廊下を戻り、研究室に飛び込む。
インターホン越しに「白石、急いでくれ」と叫ぶ。
急いで出て来た白石は、翠を抱えた石黒を見て、呆気に取られたようだった。
「え?翠ちゃん寝てるのか?何でジャージで手ぇ縛ってんの?」
研究室のガラスドアが開くのを待ちきれず、石黒は出て来た白石にドア越しに告げる。
「女の子達が食人鬼化してる」
石黒の言葉を聞いた白石はぎょっとした顔で石黒を凝視した。
「まだ夜じゃねぇぞ?早過ぎないか?まさか翠ちゃんも?」
ガラスドアが開いたので、石黒は「そう」と応えながら翠をそっと床に下ろす。近づいてきた白石に噛まれた左腕と首筋を見せる。案の定、クッキリと歯の形に沿って真っ赤に内出血し、食い込んだ歯型の周囲が腫れている。
「指とか耳なら間違いなく噛みちぎられてた」
「エッ」
「噛むだけじゃない。身体能力が人間とは思えないくらいに上がってる。身軽だし、スピードも速い。野生の豹でも相手にしてるようだったよ」
「石黒、よく無事だったな…」
「翠ちゃんは人の意識は残ってたみたいだ。でも、体は血や肉を求めて狩る気満々で本人も混乱してた。上手く隙をつくことができて良かった」
白石の顔面は蒼白になっていた。石黒は翠の動きを封じるために、紐かガムテープのようなものがないか問うと「ラボテープならある」と言うので、薬品や温度変化に耐性があるというポリエステル製の透明テープを持ってきてもらう。戻ってきた白石は、石黒が翠の手足にラボテープを何重にも巻きつけて拘束するのを見ながら言った。
「俺、まだ右腕痺れてるぜ。石黒でもヤバいなら、俺なんてひとたまりもねぇよ」
「うん。だから、翠ちゃんは操舵室に閉じ込めておこうと思ってる」
「なに?どういうこと?」
操舵室は朱音が復活させた生体認証システムが作動していて、現在は石黒と朱音しか出入りできないようにプログラムされていることを明かす。
「いつの間にそんなこと…朱音ちゃん、すげぇわ」
「彼女の機転には本当に驚いた。何かあった時の切り札にしたり、いざとなったら操舵室に逃げ込むつもりだったらしいよ。僕を信じて、僕の顔と指紋も登録してくれてる」
翠を操舵室に監禁すれば、翠の安全も守れるし、万が一、翠がラボテープの拘束から抜け出しても白石を襲うことはできない。ただし…白石の身の安全は完全に保証できるわけではない。
「悪いけど…ワクチンのことは白石にお願いするしかない。僕が戻るまで一人で持ちこたえてくれないか?」
「ん?どゆこと?お前はここにいないのか?」
「女の子を助けに行く」
石黒はプールデッキに赤城がいて、食人鬼化しているかもしれない女の子と戦っていることを話す。白石は話し終える前に「早く行け」と、石黒を急かした。
「美墨ちゃんみたいに死なせちゃ駄目だ。もう誰も死なせたくない。こっちは任せろ」
「もし、茉白ちゃんが襲ってきたら、白石はとにかく逃げて。でも、3階は潤滑スプレーを撒いてるから滑って危険だ。中央階段の上には行くな。そうだ…リネン庫なら内側にかんぬきがある。セレモニーホールⅠのエレベーターからも近いし、白石がここにいなければ、リネン庫に迎えに行くよ」
「アイアイサー。合図はノック3回だろ?忘れてねぇぜ」
「頼む、白石。絶対に死ぬな」
「それはこっちの台詞。お前が戻んなきゃ、翠ちゃんは閉じ込められたままだぜ。絶対戻れよな、石黒」
白石はニッと笑って、大丈夫だとでも言うように石黒の肩を叩いた。再び「早く行け」と言って、石黒の背を押し出す。しかし、背に感じた白石の左手は微かに震えていたような気がした。
…頼む。茉白ちゃん、ここには来ないでくれ。白石、どうか無事にワクチンを完成させてくれ。
石黒は祈るような気持ちで翠を抱え、閉じ込めるために操舵室に向かう。
廊下の暗闇を駆け抜け、操舵室に入った時には翠の意識は戻っていた。いつ頃から気がついていたのかわからないが、大きくて美しい翡翠色の瞳でじっと石黒を見上げていた。
「翠ちゃん…乱暴なことして、ごめん。どうか嫌わないで欲しい」
目が合ったのできまり悪くて話し掛けたものの、翠に人としての理性が残っているかどうかはわからなかった。翠は何も答えず、身を固くして緊張した様子だったが石黒の腕から逃れようとして暴れ出すことはなかった。石黒が操舵室の床に翠を横たえ「今度、告白する時は場所と台詞を考えるよ」と言うと、翠の唇が小さく「バカ」と、動いたような気がして笑ってしまう。
「必ず戻るよ、待ってて」
翠にそう言いおいて、石黒は操舵室を後にする。真っ暗な階段を降りて、2階の薄闇の中をひた走った。
石黒がようやくプールデッキに出た時、ちょうど美墨が落ちた辺りの手摺りを背にしていた赤城が「
「なんで、
「
目はすでに暗順応していて、石黒に背を向けている朱音が何かのベルトで腕を固定されて胴と一緒に巻かれた状態であることに気づく。
…拘束は外れてない。このまま確保できれば。
「グズグズすんな。
長い棒のようなものを朱音に向かって構えた赤城が怒鳴る。捕まえたいのは山々だが、食人鬼の動きは敏捷で予測もつかない。うかつに近づいて怪我を負わされるのも、隙をつかれて逃げられるわけにもいかない。4階でも道中でも、武器になりそうなものを石黒が入手することは出来なかった。尻ポケットの小さな注射針一本が武器では丸腰のようなものだ。
「何で命令口調なんだよ、烈。感じ悪いな」
「俺はガチムチの筋肉ダルマとは違ぇよ。知略が武器で接近戦はお呼びじゃねぇんだよ」
「僕は細マッチョだよ。それに脳筋みたいな言い方、酷くない?」
「食人鬼の身体能力を甘く見んな。俺には手加減なんてできねぇ。そいつが襲って来たら、突き殺すか、海に落とすかしかねぇ。でも、そいつを死なせるわけにはいかねんだよ!」
赤城の必死さに石黒は違和感を覚える。確かに朱音の技術は役に立つ。しかし、赤城はそれを自覚した上でも割とぞんざいに扱っていた。役に立たないと判断すれば殺すこともあり得ると懸念していたくらいだった。今になって、なぜ、こんなにも重要視するようになったのか…
「青山に何かあったの?」
矢継ぎ早に石黒が問いかけたその時、朱音が縛られた両腕を腰の下敷きにして勢いよく床にぶつかるように倒れ、腕をコンクリートの床に打ちつけた。奇妙な動きに驚いた石黒が注視していると、立ち上がって身震いした朱音の
「え…なんで…」
「朱音の奴、落下の衝撃で結束バンドを叩き割りやがった…」
自由の身になった朱音は石黒の方を振り向く。潮風にのって、ふわりと甘い血臭が漂うが、朱音が傷ついている様子はなさそうだった。何を考えているか全く読めない朱音は、黙ったまま突っ立っている。
「朱音ちゃん、僕のことわかる?」
石黒ができるだけ穏やかな調子で朱音に声を掛けると、少し
「石黒くん、どこか怪我してるの?何だか美味しそうな血の匂いがするね。あたし、鬼になっちゃったのかな?食べたい、食べたい、食べたいの。どうしよう…」
朱音は次にちら…と、赤城を見たようだった。
「赤城くんって…スリムだけど、男の子にしては色白もち肌で柔らかそうだよね。きっと甘くて美味しいんだろうなぁ」
「ふざけんな!」
「あれれ、赤城くん?食べるのは良くても食べられるのは怖いの?どうして?」
朱音は不思議そうに尋ねている。狂笑症の症状は見られていないが、朱音の発言からは食に対する認識の歪みが出ているのがハッキリわかる。恐怖に駆られたのか、赤城が牽制するように長い棒状の武器を朱音に向かって突き出した。
「烈、傷つけるな!」
「
赤城が怒鳴ると同時に朱音が動いた。軽く助走をつけて跳躍すると、赤城の隣に音もなく舞い降りる。とても人間とは思えない身軽さだった。
「
不意打ちで朱音に触れられたらしい赤城が驚きの声を上げ、素早く後退した。棒を繰り出して攻撃するために間合いをとったらしい。赤城の構えは素人のものではなく、朱音もそれ以上はうかつに手を出せないようで、その場に留まっている。
…槍術の心得もあったのか、烈。
赤城の持っている長棒がどういったものかはわからないが、先端を向けて突くような動作をしている所を見ると、どうも槍代わりになる武器のようだった。朱音はひょいひょいと右に左に棒を避けながら、赤城の隙を窺っている。
…翠ちゃんはまだヒトの意識があったから噛むのを手加減してくれたけど、朱音ちゃんはわからない。
翠に使ったような肉を切らせて骨を断つような捨て身の戦法は大怪我を負うリスクが高すぎて使えそうにない。朱音の食人の興味対象がこちらに向かず、赤城であったことは幸いだった。
…申し訳ないけど、烈に夢中になってる間に隙をつくか。
石黒はそっと朱音の視界から外れて、背後に回り込む。赤城は
「おい、朱音。俺はたぶん他の奴らより旨いぜ」
「なんで?」
「いい物ばっか食ってっからな。本場の満漢全席なんて、お前ら食ったことねぇだろ?」
「何それ美味しいの?」
「贅を尽くした中華料理の究極のフルコース」
「凄い。じゃ、それを食べてる赤城くんの肉質も最高ランクってこと?」
「そうかもな…って、
赤城は機転をきかせて、朱音の気を引くお喋りを吹っ掛け、それは功を奏したようだった。朱音は全く背後を気にしておらず、「わーい!早く食べたーいっ!」と、歓声を上げ、棒を
…よし、今だ。
流れるような転回の後、バンザイの形で起き上がってきたタイミングで石黒は朱音の背後から手を捕まえ、手首と肘を確保する。朱音の手首をぐるっと内側に握り込み、よろけて前に踏み出した朱音に合わせて一緒に歩を進め、肘と肩をを取って円を描くように導いてやると、朱音はバランスをとれずに膝と腰から崩れ落ちた。どうやら食人鬼にも合気道もどきの抑え技は通用するらしい。
「きゃ」
小さく叫んだ朱音の手首と肘を持って返し、ゆっくりと床にうつ伏せになるように、小柄で華奢な体を押さえ込む。
「ごめん、朱音ちゃん。痛くなかった?」
「ううん。痛くない。ビックリしたけど」
朱音の食人に対する以外の受け答えは全く普通だった。やはり、早い段階から血液を摂取していたおかげかもしれない。
「朱音ちゃん、もう一つごめん。ちょっと眠ってて」
朱音の体を起こし、首に素早く腕を回して締めると、頸動脈反射が起こった朱音は意識を手放し、石黒の腕に体を預けた。
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