第20話 シャンティ シャンティ シャンティ【1F乗組員用休憩室】

 朱音は思った以上にエンジンに精通しており、青山の説明に対する呑み込みが早かった。


「あたしのパパはエンジン開発の技術者だったのよ。自動車はEVシフトが進んでるし、これからは別分野に鞍替えしていくみたいだけど」


 青山は「はやし元基もとき先生の著書は俺も何冊か持ってる。自動車以外の分野でもエンジニアが活躍できるのか…」と、関心を示していた。どうやら、朱音の育ての父とは既知の間柄らしい。朱音は口もよく動くが手も早い。朱音のおかげで、思っていた以上に作業がはかどっていた。しかし、タイムリミットが近づいている。少し早めに備えておく方がいいだろう。


 …ここいらが限界か。


「二人とも休憩すっか。一息入れたら、朱音は手と足を拘束させてもらうぜ」


「わかった。でも、あの…もう、しないよね?」


「しないしない。お前に手は出さねぇって」


 それを聞いた朱音はほっとした顔をした。最初に手酷く扱ったのが、よほど恐ろしかったらしい。


「でも、そんなに悪くはなかったろ?俺、上手い方だと思うんだけど」


「そういう問題じゃないの。自分の意志に反して、体を好きにされるのはとても怖いんだから」


 朱音はそう答えると、不快そうに口をつぐんだ。嫌な顔をされたところで赤城は痛くも痒くもない。嫌われるのには慣れてるし、憎みたいなら憎めばいい。実は赤城にも朱音オンナ側の立場になった経験がある。自分の体を差し出して寝首をかく…意に沿わぬ色仕掛けハニートラップでも、女帝の指示には逆らえなかった。赤城は血を分けた息子ですら駒としか考えない母親の玉梅をはじめ、力で押さえつけられて、他人に蹂躙じゅうりんされるのは大嫌いだった。


「青山は…何か食う?そういや、朝から食ってねぇんじゃね?」


「…いや、そっちより…」


 青山は決まり悪いような表情で口籠くちごもる。そう言えば、青山はエンジンにかかりっきりで、今日はまだ一度も息抜きしていない。血も摂取していなかった。


「いいぜ。俺は一服したら、ここで続きを進めとくわ。朱音に聞いてもわかんねぇのは置いとく。とは今日でオサラバだ。食ってこいよ」


「そのことだけど…どうしても無理か?」


「無理だ。もう手遅れだって言ったろ」


 青山は監禁している【小嶋こじま葵衣あおい】に少なからず好意を持っている。アイスブルーの瞳を持つ華奢なモデル体型の美少女医学生はとても臆病で従順だった。ちょっと脅すと怯えてしまい、赤城の言いなりになるような扱いやすいタイプだった。少し話した印象では親や周囲の大人の言う事に逆らったことのない八方美人の優等生。こんな世間知らずの主体性のないお嬢さんは、殺人デスゲームに放り込まれるにはあまりにもひ弱で全く似つかわしくない。


 …ま、俺みたいな裏社会アングラの住人からしたら、こういう女はいいカモだけどな。


 初日に捕まえてから、死なせない程度に血肉をいただいたりする目的で閉じ込めていた。しかし…


 …今朝から反応がおかしくなっているのは…あれはクスリというよりも、不夜病の狂笑症のせいか?


 ―――病状が進むと眠ることができなくなり、やがて認知機能障害をきたす。昼夜問わず感情のコントロールができなくなり、苦しみや悲しみといった感情や痛みの刺激に対して、嬉しそうにニタニタしたり、大声で笑うといった反応が起きる。(狂笑症)


 和邇士郎の文書には【ニタニタ】と表現されていたので、狂った気味の悪いものを想像していたが、葵衣の控えめな微笑はとても愛らしく、痛々しく泣かれるよりも、むしろ魅力を増している気がする。噛みついて血をすすろうが、何をしようが嫌がりもせず、気持ち良さそうな嬌声を上げるので、興が乗って今まで以上にむさぼってしまった。

 葵衣自身は痛みに対して無頓着だったが申し訳程度に麻薬クスリを使ってやった。しかし、鎮痛の効果は不明で、鎮静の効果はなさそうだった。眠ることができないというのは…常に興奮状態ということなのかもしれない。

 そして、青山は愛玩対象として、葵衣をかなり気に入っていたようだ。今の葵衣の甘えるような頼りなげな雰囲気は支配したい男の庇護欲を掻き立てる。


 …執着すると厄介だな。ちょっと釘を刺しとくか。


「あっちから誘ってくるかもしれないけど、あれは不夜病が進行してるせいだからマトモに認知できてないぞ。媚びても尻尾振ってもゼッテー油断すんな。食われるぞ」


「わかってる」


「様子がおかしかったら、野暮だろうが何だろうが遠慮なく踏み込むぞ」


 青山はおざなりに「覗くなよ、エロヤクザ」と言い残して、機関室エンジンルームを出て行く。葵衣が閉じ込めてあるのは、機関制御室の隣に設置されている乗組員クルー用の休憩室だった。


「もしかしてだけど…」


 青山の行方を目で追っていた朱音がおそるおそる切り出した。


「…葵衣ちゃんがいるの?」


 赤城はその質問には答えず朱音を羽交い締めにする。別に気づかれたからといって、今さらどうということはない。自分は冷静に今やるべきことをこなすだけだ。

 「予定より随分早ぇけど、逃げられるとマズいから縛っちまうぜ」と、朱音に告げる。

 口笛を吹きながら、赤城は取り出したプラスチック製の黒い結束バンドを朱音の両足首に一周させ、輪を狭める。続いて、後ろに回させた腕をピッタリと隙間なく合わさせ、手首と親指も同様に締めあげた。機関制御室に置いてあった電気配線ケーブル等を束ねるこの結束バンドは高温と耐久性に優れており、通常のものより強度がある。

 仕上げに腰に荷造り用のバンドを回し、腕を一緒に巻きあげて、体にくっつけたまま、マジックテープで止めた。これで、朱音は腕を動かすことができない。朱音の膝はガタガタと震えていた。


「…その歌知ってる。アンタにピッタリの狂った歌」


「【Omオーム Shanti シャンティ Shanti シャンティ Shantiシャンティ】ってか」


 赤城は顔を強張こわばらせた朱音に笑いかけた。


めてくれて、あんがと。俺、この歌好きなんだ」


「ねぇ、葵衣ちゃんを殺すの?ワクチンがあれば、みんな助かるんじゃないの?どうして…」


「あの歌知ってるなら意味もわかんじゃね?利用価値がなきゃいらねんだよ。それに葵衣はもう手遅れだ。食人鬼化して厄介なだけだ」


 人は道具。人は獲物。人は手段。真言マントラのもつ本来の祈りシャンティとは真逆な利己的でしかないまじない。周囲の人間や宇宙ではなく、全ては赤城自身の心の平安のために。

 赤城の目的は生き延びることではない。生き延びた上で、和邇士郎の巨大コンツェルンSANDORAを手中に収め、ひいては紅漣幇ホォンリィエンホウのNo.1に返り咲くこと。

 赤城は和邇士郎の真の意図に気づいていた。和邇士郎の関心はただ一人の【遺伝子】にしかない。これはその人物に自分自身和邇士郎の存在を刻みつけたいが為の和邇士郎の全てを賭けた挑戦状。遺伝子を分け与えた子供達は代償行為を担う和邇士郎の分身。ゆえに後継者云々うんぬんを偽る必要などない。


 …むしろ、生き残った者の存在こそが和邇士郎の悲願。和邇士郎を動かすのは【承認欲求】だ。俺と同じ。


 大きな失態によって、母である女帝・玉梅に見放された長子・烈の起死回生策はたった一つしかない。


 …【イェン】には負けられない。


 自分とそっくりなNo.1のほんの少しの憐れみを含んだあざけるような笑みを思い出す。血を分けた同胞きょうだいとはいえ、嫉妬と憎悪しか持ち得ない。


 …絶対に認めさせてやる。


 床に座り込んで泣き崩れる朱音を冷たく見下ろした赤城は、目の前の朱音の泣き声とは別の方向から微かに聞こえたうなるような声にハッとなった。


「…青山?」


 急いで休憩室に向かう。ドア前で耳を澄ますが物音はせず、ドアの向こうはしんと静まり返っていた。


 …気のせいか…いや…何かおかしい。


 数々の修羅場をくぐり抜けてきた赤城の本能が警鐘を鳴らす。研ぎ澄まされた五感が危険を察知していた。


「おい、青山。返事しろ。返事しねぇと開けるぞ」


 ドア越しに大声で呼び掛けるが返ってくる声はない。返事の代わりに心をとろかす甘ったるい香りが赤城の鼻孔をくすぐる。本来のものとは違う…認知が歪んでから何度も嗅いだ魅惑的な香り。


 …血臭。どっちの?


 もはや、嫌な予感しかしない。しかし、青山の状態が気になる。青山を失えば、この船を動かすことが困難になってしまう。躊躇する暇はなかった。


「青山っ!」


 ドアを開けた赤城の目に入ったのは、おびただしく流れ出た血。固く目を閉じて千切ちぎれかけた頭部。骨が見えるほどに肉を失った右腕。目を背けたくなるほどに凄惨な青山の遺体だった。辺りは真っ赤に染まった血の海にも関わらず、胸が悪くなる程に甘い甘いかぐわしい香りに包まれている。


「うっ…」


 一瞬ひるんだ赤城の隙をついて、赤城に体当たりしながら部屋を飛び出した人影に息を呑む。その少女はひらりと広がった薄く透けるオーガンジーの裾をひるがえし、音もなく床に降り立ち、野生の獣のような身のこなしで素早く走り出した。


 …食人鬼化したのか…


 顔は見えなかったが、葵衣の瞳の色と合わせたアイスブルーのヒラヒラした唐装漢服風ドレスは、リネン庫にあった女性用衣装の中から赤城自身が選んで着せたものだ。葵衣のもつ清楚な色気を醸し出すグッドチョイスだったらしく、青山にも大ウケで熱心に鑑賞していたのを思い出す。


 …アオイの色仕掛けに油断しやがったか…馬鹿野郎…


 しかし、日没にはまだまだ充分な時間があったはずだ。食人鬼化するには早過ぎる。それに、朱音には全く変化がなかった。なぜ…


「キャアアアアア」


 間髪入れず、機関制御室から空気を切り裂くような悲鳴が聞こえて、ギョッとなる。


 …しまった…朱音が!


 朱音は身動できないように縛り上げている。食人鬼となった葵衣に襲われたら逃げることも抵抗することもできない。

 青山が死んだ今、少しでも機械についての知識がある人間は朱音しかいない。この上、朱音までられると、この船は万事休すだ。赤城は急いで機関制御室に引き返した。

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