第7話
「流れが変わったのは、あのあたりですか」
追いついてきたマーストが馬上で、リソレ川の一点を示した。
「そうだ。気になったから、前に来た時、確かめておいた。よかったよ。思ったよりも早く、あの話をすることになったからな」
エヴィはロバで登りきったところで、正面に広がる大河を見た。
リソレ川は、エヴィの視界を斜めに横切っている。
冬の日射しに彩られた水面はくすんでおり、流れも遅い。美しさは感じないが、その存在は国境を作り出すのにふさわしい雄大さを有していた。
結局、休憩後の交渉は、サクノスト代表団が休会を申し入れることで終わった。次の日程も決めないままだったので、相当に相手が慌てていたことがわかる。
五日が過ぎて、いまだサクノスト側からの連絡はない。小康状態がつづいて、ゴ・サミュの外交団は時間に余裕ができていた。
その中、エヴィはマーストを伴って、ヤマニト丘陵に出向いていた。
マーストが何か声をかけてきたが、エヴィには聞こえなかった。
「何だ。何か言ったか」
「いえ、時間が稼げてよかったなと。うまくはまりましたね」
「ああ。交渉のことか。そうだな。グアント伯爵があそこまで突っ走っているとは思わなかったよ。地元の領主にすら話をしていなかったとはね」
「流域の件を知らなかったんですからね。驚きです」
「功を焦っているのは、明らかだな」
国境線のようなデリケートな問題を扱う場合、地元の領主に話を聞くのは当然のことだ。住民の行き来がある以上、複雑な事情がからみあい、うかつな判断を下せば、自国にも損害が出る。場合によっては、地元の有力者とも会合を持ち、外交団の判断が適切かどうか確認を取る。
グアントの外交団は、その作業をいっさいおこなっていなかった。一
一度でも話し合いを持っていれば、流域変更による国境の移動について議論になったはずだ。
「軍人らしいやり方だ。勝手に押し切って、中央進出の足がかりにするつもりだったのだろう」
「今頃、連中は資料をひっくり返していますよね」
「外交の専門家が一人でもいれば、そんなことにはならなかった。馬鹿で助かった」
「このまま、有利に交渉を進めたいところですが、いけますか」
「わからんね」
エヴィは、灰色の大地を登っていく。
「稜線の向こう側は、サクノストの陣地か」
「殺気だっていますから、近づくのは危ないですね」
「味方の援軍も到着したからな。この先、どうなるか」
ゴ・サミュの騎馬部隊500が昨日、味方に合流し、トゥクラスは打ち合わせのため、味方の陣地に出向いていた。後続部隊が到着すれば、本格的な奪還作戦がはじまるだろう。
「今日は、どうして、ここに?」
「気になることがあってね。ああ、見つけた」
エヴィは、ロバの首を振って、細い道を進んでいく。
その先には小屋があり、その戸口には男が座っていた。
小屋は粗末で、屋根は大きく傾き、庇も壊れていた。壁には穴の空いた跡があって、板で無理にふさいでいる。
「あの小屋は」
「この間、来た時に見つけたんだ。漁師小屋だと思うが」
エヴィは小屋に近づいた。ロバから降りたのは、男が顔をあげた時だ。
「おい、君は、この小屋に住んでいるのか」
「そうだ」
太い声が響く。
大柄な男で、皮の服ははち切れんばかりだった。髪も髭も伸び放題だったので、顔を動かすと、さながら毛の塊が動いているように見える。
「漁師か」
「そうだ」
「いつからここに暮らしている?」
「10年前だ」
男はぽつりぽつりと応じる。目線はあわせず、網をいじっている。
「ここは危険だ。早く避難するといい」
ようやく男はエヴィを見た。
「戦いがはじまる。この間は稜線の向こう側で済んでいたが、今度はこちら側にも出てくるかもしれない。そうすれば、君も巻きこまれる」
「逃げるつもりはない。ここで、俺は生きる」
男は淡々と語る。
「魚を捕り、売り、また魚を捕る。その繰り返しだ。いまさら変えるつもりはない。たとえ、この身が砕けてもな」
「立派な覚悟だ」
「戦いがはじまれば、小屋にこもっている。食糧は貯めこんである」
エヴィは小屋を横目で見た。しばらく、その場で動かずにいたが、やがてロバに乗り、小屋から離れた。
「よいのですか」
「覚悟を決めているなら、言うことはないよ。今は行くとしよう」
エヴィは、川へ向かって降りていく。
その背中を男が見つめる。視線を感じながらも、エヴィは気にすることなく、ロバを前へ進めていった。
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