置手紙

「本当にこれで大丈夫なの?」


 ヒルダが心配そうに覗き込んでくる。ボクの手元には、貝殻に文字を刻みつけた置手紙がある。


「うん……たぶん」


 自信なさげな返事に、ヒルダは小さく溜息を吐いた。


「もう少し詳しく書いた方がいいんじゃない? 特別な事情があって、どうしても行かなきゃいけないって」

「でも、マックスのことは書けないもん」


 ボクは貝殻を握りしめる。確かにヒルダの言う通りだ。でも、人間族ヒュームの少年を匿っているなんて、そんなことを手紙に書けるはずがない。


「仕方ないなぁ。じゃあ、せめてもう一枚書いてみましょう」


 ヒルダが新しい貝殻を差し出してくれる。でも、何度書き直しても満足のいく文章にはならない。

 置手紙の文面は、ボクの文章力の賜物で、何か軽い。パパとママも絶対心配するに決まっている。最終的に選んだのは、一番最初に書いた素直な言葉だった。


<ちょっと外海へ冒険の旅に行ってきます。心配しないで下さい。必ず戻ります。ナディア>


「ちょっと……本当に、これしかないの?」

「うん、これしかない」


 でも、今は色々考えていたくない。考え始めると、きっと怖くなって逃げ出してしまいそうだから。


「わかったわ。私が見張り役をする。ナディアのパパとママが帰ってきたら、できるだけ時間を稼ぐから」


 ヒルダの申し出に、ボクは感謝の気持ちでいっぱいになる。彼女がいなければ、ここまで来られなかったかもしれない。

 旅に必要な物をあれこれ集めて鞄に詰め込んで家を出た。海藻で編んだ鞄には、航海に必要な道具や食料、そして何より大切な、マックスの治療に使う薬草を詰め込んだ。ヒルダが最後に持ってきてくれた魔除けの貝殻も、大切に仕舞い込む。


「気をつけてね」


 別れ際、ヒルダは強く抱きしめてくれた。

 それからあの島に戻る。マックスが身を隠している小さな無人島だ。今はここで静かに養生を続けている。

 人間族ヒュームであるマックスに、ボク達人魚族マーメイドの養生方法が合っているのかどうかなんて判らない。でも、ここは人魚族マーメイドの集落で、人間族ヒュームなんていない。


――与えられたものの中で、最大限に考えて生き延びるしかないじゃない……


 そう思う事にした。

 棚の中に閉まっておいた食料を丸ごと全部貰ってきた。これで食事は大丈夫だと思うから、それらを持ってボクはマックスのところに戻り、船に積み込んで、最後にマックスも船に乗る。小さな木の船は、マックスが島で見つけたものだ。応急修理はしたものの、まだ完全とは言えない。


「やっと家族のところに帰れるんだ」


 マックスの声には期待と不安が入り混じっていた。


「でも、街はまだ戦場かもしれないのに……危険だって分かってるの?」


 ボクは心配になって訊ねた。


「うん。でも、家族と一緒にいたいんだ。どんなに危険でも、父さんに母さん……それに妹が待ってる筈だから」


 その時だった。


「ナディア!」


 聞き覚えのある声が、背後から響いてきた。

 振り返ると、そこにはパパとママが、そしてヒルダの姿があった。


「ごめん……ナディア……駄目だった」


 申し訳なさそうに謝るヒルダ。きっと必死で時間を稼ごうとしてくれたんだろう。


「一体何を考えているの!? たった一人で冒険に行くなんて、危険すぎるわ!」

「ママの言う通りだ。今すぐ帰るんだ」


 ママが叫ぶ。

 パパの声は低く、重い。

 その声には怒りと不安が混ざっている。でも、その時、マックスが二人に気づいて声を掛けた。


「待ってください! 彼女は僕の帰郷を手伝おうとしているだけでっ……」

「な、何だと!? それに何故人間族ヒュームがここにいる!?」


 人間族ヒュームを目の当たりにして、驚きのあまり動けないでいる。でも、それも僅かな事で、パパの声が怒りに震え、島全体に響き渡る。その声に、マックスは一瞬たじろぐも、すぐに姿勢を正した。


「話を聞いてください! お願いします!」


 マックスが真っ直ぐにパパとママを見つめようとしたが、ママが悲鳴にも似た声を上げた。


「離れなさい、ナディア! その人間族ヒュームはあなたを攫おうとしているのよ!」


 ママは必死な形相で叫び、ボクの方に手を伸ばす。その目には、恐怖と怒りが混ざっていた。


「違います! 私は決してナディアを傷つけるつもりは……」

「お黙りなさい! 人間族ヒュームの言葉なんて信じられるものですか!」


 マックスが必死に説明しようとしているけど、ママは声を張り上げて遮る。しかし、マックスは必死に食らいついた。


「僕は、帰りたいだけなんです。故郷には家族がいるんです。父と母、それに妹が……戦火の中で待っているんです。ナディアはそんな僕を助けてくれただけで、何も悪い事はしていません」

「悪辣な人間族ヒュームどもは、平気で嘘を吐く! お前も同じだ! 我等の娘を手玉に取って!」


 パパが一歩前に出る。その手は怒りに震えていた。


「帰りたければ一人でさっさと失せろ!」

「いい加減にしてよっ!」


 生れて初めて大声を出して怒鳴った。


「ボクを見てよ! どこか怪我してる? 乱暴でもされた?」


 その声の大きさに、パパもママも、そしてヒルダまでも驚いて声を失う。涙が頬を伝い落ちる。


「マックスは誰も傷つけていない! 傷ついているのはマックスだよ!? 家族と引き裂かれて、戦争に巻き込まれて……それなのに、まだ家族の元へ戻ろうとしているの! どうしてそれが判らないの!?」


 ボクの叫びが朝靄に吸い込まれていく。静寂が訪れ、波の音だけが響いていた。

 パパとママは言葉を失い、ただボクを見つめている。静寂が訪れ、波の音だけが響いていた。その時、ヒルダが一歩前に出た。


「ナディアがマックスを助けていたのを、私は知っていました。毎日、薬草を集めて、治療を手伝って……彼が家族の話をする時、どんなに切なそうな顔をしていたか……」


 ヒルダの声は静かだけれど、芯が通っていた。

 マックスは黙って俯いていた。その肩が小刻みに震えている。


「ナディアの判断は間違っていないと思います。家族を思う気持ちは、種族が違っても同じ筈ですから」


 ヒルダの言葉に、パパとママは顔を見合わせた。そして、長い沈黙の後。


「はぁ……」


 パパが大きく息を吐いた。

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