望郷……そして……

「それで? 海草とかなら、食べられる?」

「うん、多分食べられる」


 ボクは早速海に飛び込む。そして水面から顔だけ出した。尾鰭が月明かりに照らされて、銀色に輝いているのが分かる。


「じゃあ、家から持ってきてあげるから! ちょっと待ってて!」


 尾鰭をヒラヒラと動かしながらボクは家に向かい、ママに内緒で食材のある棚を漁ってみた。

 幸運なことに棚の上にあったのは、夕食で使わなかった海草のサラダと木の実。ボクにとっては御馳走なんだけど、構わずそれらを手に取って引き返す。


 そう言えば、木の実のことは聞かなかったけど、食べれるでしょう……多分ね。地上の人も木の実は食べるって、確かパパが言っていたような気がする。

 それらを水の入らないバスケットに入れてあの島へと戻ると、マックスは変わらずに一人ポツンと座って月を眺めていた。その姿は、まるで絵画のように美しく、儚げだった。


――なんか、素敵だな……


 素直にそう思った。彼の金色の髪と白い横顔が月明かり照らされて、まるで別世界から来た妖精ニンファのように儚げで美しい……って、ボク見惚れていたの?

 急に自分の思考に気付いて、頬が熱くなるのを感じた。

 咄嗟に首を左右に振って雑念を振り払い「お待たせ」と声を掛け、マックスの膝の上にご馳走を乗せてみた。彼の目が少し輝いたように見えた気がする。きっと、本当にお腹が空いていたんだろう。


「ナディア……これは?」

人間族ヒュームの好みは判らないけど、食べられるのなら食べて!」


 マックスは目を潤ませながらボクを見た。


「ナディア……ありがとう! この恩は一生忘れない!」

「大袈裟ね。良いってば、その位……困った時はお互い様よ!」


 何だか気恥しくなって、彼に食べるように促すと、マックスは一気に口にする。相当お腹が空いていたみたい。


「落ち着いてゆっくり……慌てて食べたら死んじゃうよ」

「う、うん……」


 明らかに戦ったんだろうと思われる人間族ヒュームの死体を見るのは珍しくはないけれど、目の前で死なれるのは嫌だ。

 それに飢餓状態から急に食事を摂ると内臓が過剰反応を起こしてショック死するというから……もっともそれは人魚族マーメイドの話だけど、人間族ヒュームも似たようなものだと思う。


 ボクは、彼が食べ物に手を伸ばすのを見ながら、これからどうすればいいのか考えていた。

 この先、彼をどこかの安全な場所まで案内してあげなければいけない。でも、それはまた明日の朝の話。今は、彼の空腹を満たしてあげることが先決だ。そう思った。



                        ◆◆◆◆



食事が終わり、マックスが食器を後ろに置くと真顔でボクに向き直った。


「君は命の恩人だよ!」


 目の前で涙ぐむマックスを見て、また恥ずかしい気持ちが沸き起こって来る。でも、マックスの表情が険しいものへと変化していくのに気がついてボクは息を飲んだ。

 その瞳に宿る感情が、まるで嵐の前の海のように荒れ狂っているのが分かった。ボクは黙って、彼の次の言葉を待った。マックスは月明かりに照らされた海面を見つめ、静かに、でも力強く言葉を紡ぎ始めた。


「ナディア……僕は、街に戻らなきゃいけないんだ」


 その言葉に、ボクは思わず尾鰭を水面に叩きつけそうになった。


「でも! 戦争が起きてるんでしょう? 危険すぎるよ!」

「わかってる……でも……」


 マックスは拳を強く握りしめた。その手が微かに震えているのが見えた。


「あの街には、まだ大切な人達がいるんだ。父さんに母さんに妹のハンナ……それに沢山の友達も……みんな戦火の中にいる。なのに、僕だけが逃げ出してしまった」


 彼の声は次第に震え始めた。それは怒りなのか、悔しさなのか、それとも恐れなのか。おそらくそのすべてが混ざり合っているのだろう。


「街が炎に包まれていくのを、船の上から見ていたんだ。赤い炎が空を染めて、黒い煙が立ち昇って……人々の悲鳴が風に乗って聞こえてきて……なのに、僕は何もできなかった」


 マックスの目から涙が零れ落ちた。その一滴が、岩の上に小さな染みを作る。

 ボクは何も言えない。人間の世界の残酷さを、どう理解すればいいのか分からない。


「父さんに逃げろって言われて、無理やり船に乗せられて……でも、本当にそれで良かったのかのかわからない。もし僕に何かできることがあったんじゃないかって……」

「マックス……」


 ボクは彼の名前を呼ぶことしかできない。

 海の底で平和に暮らしてきたボクには、戦争の恐ろしさも、大切な人々を失う痛みも、想像することしかできない。

 マックスは月を見上げ、深い溜息を吐いた。その横顔には、年齢以上の苦悩が刻まれていた。


「父さんは、いつも『困っている人がいたら助けなさい』って教えてくれたんだ。でも、肝心な時に、僕は何もできなかった。ただ逃げることしかできなかった」


 自分を責めるような口調で、マックスは言葉を続ける。


「海に出てからずっと忘れられないんだ。炎に包まれる街を。逃げ惑う人々を。そして……僕を船に乗せてくれた父さんと母さんの表情を」


 ボクは黙って話を聞いている。

 時折、波のさざめきだけが静寂を破る。人魚である自分には、おそらく一生理解できない痛みがそこにはある。


「でも、このまま逃げ続けるわけにはいかない。きっと……きっと街には、まだ助けを必要としている人がいる。そして、家族だって……まだどこかで……」


 彼の言葉は途切れがちになった。希望と不安が入り混じったような表情で、マックスはボクの方を見た。何か言いたげな、でも言い出せない様子。その眼差しに、ボクは胸が締め付けられるような感覚を覚えた。


「ナディア、その……」


 マックスは言葉を躊躇っている。その様子に、きっと重大な頼み事なのだろうと察することができた。でも、彼は何度か口を開きかけては閉じ、どうしても言葉にできないでいる。

 ボクには想像がついた。きっと故郷に戻るための何かを、ボクに求めているのだろう。でも、それは『人魚族マーメイド』であるボクには難しいことかもしれない。海の上の世界のことは、ほとんど何も分からないのだから。


 それでも、彼の真摯な眼差しを前に、ボクは何かしてあげたいと強く思った。たとえ それが、掟に触れることだったとしても……


 月の光が二人を静かに照らし、波のさざめきだけが、この重い沈黙の証人となっていた。

 マックスの心の中で、何かが激しく渦を巻いているのが分かった。それは、ボクには触れることのできない、人間の世界の重い現実なのかもしれない。

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