第112話 終幕
「どうかなさいましたか?」
紅玉は窓の外をぼんやりと見つめる蒼子に訊ねる。
物憂げな横顔さえも、我が姉は美しい。
例えるなら女神。これに尽きる。
紅玉は王都に戻る途中に宿を取った。
日が暮れる前に事前に手配した宿に入り、食事を済ませた。
食事後の部屋で花模様の細工が美しい椅子に腰を下ろした姉にお茶を注ぐ。
蛇神との難しい交渉を無事に成功させた蒼子は倒れた皇子達と共に聖域を出た。
その後、二日ほど身体を休め、皇子の回復が順調であることを見届けると、皇子が目覚めないうちに蒼子、紅玉、柘榴の三人は町を出たのである。
柘榴は食事を済ませて、三人分のお膳を運ぶのは大変だろうからと宿の給仕をする女性を手伝いに行った。
急ぐ用はなく、中々神殿の外に出れないのだから、もう少しゆっくりしてからでも問題ない。
だが、姉は足早に町を出たがった。
まるで何かから逃げるかのように。
「記憶の蓋が開いたようだ」
「それは…………」
紅玉は驚いて言葉を詰まらせる。
姉には古い記憶がある。
自分達が生まれるよりも遥か昔の記憶だ。
「これ以上、蓋が開けば、私は私でいられなくなるかもしれない。距離を取るのが身のためだ」
『距離』という言葉が『誰』との『距離』なのか、紅玉は既に知っている。
紅玉は蒼子の過去は知らない。
だが、距離を置かなければ平常心を保てなくなるほどの出来事が過去にあり、それを彷彿とさせるものがあるのだ。
「それがよろしいかと」
紅玉を頭の中に浮かんだのはあの皇子の顔だ。
姉自身が距離を置くと言うのであれば、その方が良い。
過去であれ、今であれ、姉の平穏を乱す輩は姉の視界から消えて頂きたい。
「そう言えば、最初から気付いたのですか?」
紅玉は思い出したように言う。
「何を?」
「皇子があの町に縁があったことです」
呂家を発つ前に紅玉は蒼子と朱里の会話を盗み聞きした。
盗み聞きというか、紅玉が近くに控えていたのに気付かずに二人が会話を始めただけなのだが。
「それは偶然だ。だが、帝は知っていたのだろうな。だからわざわざ皇子を同行させた。皇子が自ら同行する必要はなかった」
王印を持つ皇族を護衛も最小限、警護もない状態で城の外に出すなど、本来であれば有り得ないのだ。
だから敢えて鳳珠を同行させたのは何か意味があると考えていたと蒼子は告げる。
「結果として良かったと思う。あの人はあの町が変わるきっかけを作り、多くの人達を救った。あの人が呂鴈の訴えに耳を傾けなければ、あの町はずっとあのままだった。まぁ、蛇神に求婚されたのは想定外だったが」
蒼子は満足そうな表情で言う。
対して紅玉はそれが不満だった。
姉はやり切った感満載だが、もしかしたら命を落としていたかもしれないほど大きな出来事だったのだ。
神との交渉、それも神の伴侶を諦めさせるというのは並大抵のことではない。
一歩間違えれば神の怒りを買い、報復を受けて命を落としてもおかしくなかった。
それを成功させたのは姉の技量故である。
まさか、交渉材料に町一つ差し出すとは紅玉も考えていなかった。
せいぜい、姉の神力を分け与えるか、類似する方法で神力の供給を行うか、または神を脅す暴挙に出るか……。
いくつか予想は立てていたが、どれも見事に外れであった。
流石は、我が姉。
紅玉は心の中で蒼子を褒め称えた。
「もう一つ、あの舞優という男についてですが」
姉を連れ去ろうとする不届きな輩である。
蒼子はゆっくりと窓から視線を外し、こちらに視線を向けた。
姉は目線の運び方一つとっても麗しい。
この麗しい女神の如き姉を欲しがるのはおかしい話ではないが、それ以上は決して許さない。
不躾な目で見つめることも、触れることなど言語道断。
自分から姉を奪おうとするなら、死を覚悟してもらう。
「獏神会と関係があるようです」
獏神会とは別名皇帝派と呼ばれる者達で神官神女を始め、神力持つ者達を徹底的に管理し、その力を国のために有意義に利用しようとする者達だ。
紅家、藍家、翠家の三大貴族は神官神女を多く神殿へ召し上げ、家門の中にも神力を持つ者を有している。
これらの家門は強力な神力を持つことで他家との差を広げ、政治や軍事に介入することで力をつけてきた。
この三家は自分達の力を利用されることを良しとしない為、獏神会とは対立しているが、一部の間で獏神会に協力する者が現れた。
獏神会は神力を持つ者を集め、飼い慣らし、その力で悪事を働いているという黒い噂がある。
「現に呂鄭は町で生まれた神力を持つ子供達を獏神会に高値で売り渡していました。憐れな子供達を洗脳するのは容易です」
そしてその獏神会が貴族達を取り込み、政権に介入しようと乗り出して来たのだ。
「私を連れ去ろうとしたのは獏神会と繋がっていたからか……。しかし、あの男は皇族に反抗的だった。獏神会の一員かどうかは判断できないな」
王印を持つ鳳珠に敵意を顕わにし、神官神女が皇帝の言いなりになることを厭う発言をしていた舞優が神官神女を意のままに操ろうとしている獏神会の味方をする理由がよく分からない。
もしかしたら生き別れた妹とも関係があるかもしれない。
妹との再会だけは願ってやらないでもないが、それ以外を紅玉ははやはり許せなかった。
「呂鄭はやつらにとって良い取引相手だったと言える。呂鄭が捕まったことで奴らにも動きがあるだろう」
鳳珠はあの町を救った。
しかし、それが彼の首を絞めることにもなるかもしれない。
「あの舞優という男にはまた会うかもしれない」
「殺しても?」
「駄目」
即答する蒼子に紅玉は不満を露わにする。
「命は尊い。感情一つで奪っていいものじゃない。分かっているでしょう?」
「…………えぇ」
唇を尖らせながらも返事をする紅玉に蒼子は小さく微笑む。
その微笑み一つで先ほどまで燻っていた不満が一瞬にして吹き飛ぶのだから不思議だ。
紅玉は舞優への殺意を一旦仕舞い込み、蒼子の足元へ跪く。
「どうか、くれぐれもお気を付け下さい。どうか、私を側から離さぬように」
懇願するように紅玉は言った。
姉は時折、自分を遠ざけ、自分を置いていく。
紅玉はそれが堪らなく嫌だった。
それは信頼されているからであり、心配されているからであり、全ては自分への愛故だと知っている。
しかし、自分は姉を一人にしたくない。
この優しく、繊細で美しい姉の側を離れたくないのだ。
姉を安心して任せられる者が現れるまでは自分が側にいたい。
すると頭の上に優しい温もりが降りて来る。
優しい手つきで頭を撫でられ、紅玉は堪らず目を細めた。
どうか、この時間がいつまでも続きますように。
姉との平穏な時間が脅かされることがありませんように、と紅玉は強く願って目を閉じた。
水の神女と蛇神の呪い~娘役の神女は皇子殿下に可愛がられてます~ 千賀春里 @zuki1030
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